夕食後のひととき


食事の後、星新一の小説「明治・父・アメリカ」残り僅かとなった頁を開き読み始めて、やがて読了する。目眩くような、明治時代のスーパースター達が惜しげもなく登場してきて、星の父親と交差する。…これはもう、人間の努力がどうとか我慢と忍耐で異国の地でどうとか、そういう人間個人の話ではなくて、日本がまだ本当に小さかった(一個の零細企業なみの資本と事業計画と人員だけでやりくりしているような)そういう時代の生々しさが刻印されている、その記録なのだと思う。(江藤淳が自分の一族を書くときの感触との根本的な違いを思うと興味深い。この違和感を忘れないうちに江藤淳の「一族再会」を再読したいのだけど…)


その後、磯崎憲一郎の小説「肝心の子供」を読む。夜の10:00くらいから読み始めて、はじめはその世界へなかなか入っていけなくて何度かリトライを繰り返していたが、そのうちすーっと入った。そのあとも行きつ戻りつして、この世から高飛びしてるみたいな時間を過ごして、そのまま気づけば読了してしまった。あぁ終わってしまった、という感じ。もっと長く味わいたいたかったという気持ちが高まる。時計をみたら午前2:00であった。只ひたすらたゆたう長くてゆったりとした映画を体験したときの感じに似ており、最後の部分が頭が真っ白になるくらいのすごい事になっていくせいもあるけど読了後、その余韻にいつまでも浸っているだけの状態になってしまった…。起こった出来事(書かれていた事ひとつひとつ)の事が一個の記憶として後から後から思い出される感じ。ヤショダラの姿がせつなく美しい。(僕の脳内では、ヤショダラを演じてるのは新珠三千代である。)


その後、買ってあったDVD「ONE FLAT THING,REPRODUCED」(ウィリアム・フォーサイス)を観る。たった30分足らずの時間の中で、一瞬たりとも息をつけないようなすさまじい緊張感が延々持続する。関係/無関係とか、連鎖とか自律とか、激しさとか干渉とか静寂とか気配とか余韻とか…なんでもいいのだけどそういう僕が普段わかった気になって軽々しく使用している抽象的な言葉が、ほんの少しでも身体とかテーブルとかそういう素材を使って現前したとしたら、それは実際どれほど驚くべき事なのか!というのを、この作品はすさまじい力で観る者に叩き付けてくる。モノのモノ自体とか、動きの動き自体とか、ロクにイメージする力も無いくせに軽はずみに口にするなよと凄まれてるかのような、圧倒的な迫力だ。ことある毎に突如来る感情のたかぶりで、感極まりそうになりながらも圧倒されまくる。


…で、へとへとになって寝る。