1996年頃・石膏


 石膏を水で溶き、それにジェッソの白とモデリングペーストを加えてよく混ぜ、乾かないうちにシナベニヤの表面に薄く延ばして満遍なく塗布する。石膏を加える理由は、キメ細かく硬質な表面を得たいため。とくに変な欲を出さず、大人しく何も考えずに塗布する。手で塗るとどうしても多少の塗りムラや擦れや凹凸ができて、昔はそれが妙に味わいのある表情に見えてしまい、そういうのを細かく弄ってテクスチャーの遊びに拘泥したくなるのだが、それも枚数を重ねればある程度パターンが見え単調になってきて飽きも来るので、今はとにかく機械的にさーっとぶっきらぼうに塗るだけ。良くても悪くてもどっちでもいいのだ。枚数分、だいたい同じものが出来ればよい。この段階でちまちま価値判断しない。最初はそれくらいに冷静じゃないと駄目で、下地作成段階の今から舞い上がってたら完成など何年先になるかわかったもんじゃない。いやむしろ下地作成段階が物質として一番うつくしいから、そこにいつまでもいたくなるというだけなのだが。いざ自分の制作という局面に入ったら、びっくりするくらい自分が臆病になって手足が緊張してしまって、普段の力の半分も出せなくなるのだが。だからそうならないように最初からセルフメンタルケアもしているつもりなのだが。それで、そうこうするうち、やがて塗布が完了して、真っ白な90cm×45cmの八枚のシナベニヤ板を、床に並べたのを椅子の上に立って見下ろしてみる。大変良い気分である。こうして整然と並んだ白い下地の画面たちは、いつ見ても、ほんとうにうつくしい。このときだけがいつも、最も胸高鳴る瞬間だ。しかし今まで、僕はいったい何度、このようなうつくしい下地たちを作って、こうして椅子に上ってそれらを見下ろしてきたことだろうか。そして今回もまた、おそらく今夜、その夜の明け切らぬうちに、これらの大多数が、自らの手によって台無しになってしまうのかもしれない。その可能性は高い。僕はまるで定められた儀式のように、今夜か明日、やはり同じ失敗を繰り返すのかもしれない。きっとそうに違いない。でもまあ、それはそれだ。失敗に懲りて、それを繰り返さないように、細心の注意を払った事もある。その結果僕は「成功」を手にしたこともある。でもそれはそれでまた、僕の目的ではないのだ。というか、僕のやってる事は、成功させるのは、別にさほど難しいことじゃないし、成功した成果も、さほどのものじゃないのだ。これなら誰でもやれるんじゃないの?というようなことをやってるのだ。律儀に、計画的に、思い通りにやって成功させて、それでやっと人並みかそれ以下、という程度のことなのだ。…だからむしろ逆に、成功できないのだ。そう簡単には、成功できないし、熟練もするわけにはいかない。経験は積みたいけど、常に同じクオリティを保証する職人を目指してるわけじゃないのだ。むしろ、事故だよ。アクシデント狙いなのだ、一発屋なのだ。万馬券というか、ほんの些細な瞬間を狙っているのだ。(それはこれを書いてる今だから、安心してはっきりそう言えるのだ。当時はまだそう思えなかった。かわいそうな当時の俺。)とにかく今はまだ、何もするときじゃない。乾燥を待つときだ。あまり知られてないことだと思うが、美術制作というのはその内実の半分以上が、乾燥を待ってぼんやりしている時間なのである。物質相手だとこれはもう、しょうがないことだ。今日の夜か、万全を尽くすなら二十四時間おくべきだ。というわけで、僕はこれから、また遊びに行く事にする。ここ数ヶ月僕は、待ち時間になったら遠慮なく遊ぶことにしている。ニ三日戻ってこなくても良いとさえ思っている。それくらいで駄目になるようなものではないはずだからだ。やりたいように遊んで、戻ってきてから、やりたいようにやれば、何もかもが上手く行く。というのが僕の挑戦なのではなかっただろうか。少なくとも、遠慮してて得るものなどないはず。とにかくもう出かけよう。玄関のドアを開けると、驚くほど肌寒い夜風が全身を包む。自転車に乗って、さて僕はこれから遊びに行く。胸がわくわくする。全速力で自転車をこぐと、冷たい夜風が僕の顔や胸にあたって、左右に切り裂かれていく。群青色の空に浮かぶ外灯やネオンの光がみるみるうちに後方に流れ去っていく。石膏が乾いていくときの、小さな生き物の鳴き声のような音が耳の奥にかすかに聞こえる。