麦秋


杉村春子が、こんなことを言って、怒らないでね。と前置きしつつ、私はもしあなたのような人が息子の嫁に来てくれたら、どんなに良いかと思っていたのよ。と口にする。それを聞いた原節子は、おばさん、私のこと、そんな風に思っていてくれたの?と、聞き返す。このときの原節子の表情、ものの言い方は、それまでと何もかわらない。眩しいような、にっこりとした笑顔のままである。しかしその言葉が、単に答えを濁すための言葉でないのは、観ている誰もが、確実にわかる。そこに何かが、表情か言葉か、あるいはその両方かに、ほんの僅かだけ、含まれているように感じられる。しかし、それはほんとうか?たぶん、そこだけを再生して、原節子のセリフをもう一度聞いてみても、そうは思わないかもしれない。なぜ、あの流れの中で、杉村春子原節子が、おばさん、それ本当?と聞き返したとき、まるでほんの一瞬の空気の揺らぎのようにして、あ、何か違う。何か始まった。という風に感じてしまうのか。


とにかくこのとき、何かが動く。まったく静かに、物音ひとつないままに、何かが変わる。あたしで良かったら。原節子からの予想もしなかったその言葉を聞いて、杉村春子は驚きと喜びで、あわてふためく。ほんとかい?ほんとかい?ほんとなんだね?と何度も原節子に聞き返し、原節子はやはり、さっきと変わらないそのままの笑顔で何度も、ええ、ええ、はい。と頷く。杉村春子はもう有頂天の状態で、ほとんど取り乱したように、ねえパン食べる?アンパン、食べる?と言いだす。原節子は笑いながら、ううん、私もう沢山、と言って、あたしもう行かなきゃ。と言って、その場を後にする。


観る前は「麦秋」について、前に観た記憶を思い出して、何かを決断するというときの華麗さというか、軽やかで颯爽とした感じがすごく良い、とか、そんな風に思ったりもする。しかし映画が始まってしまうと、そんな風に思えるようなシーンは一つも出てこないのだ。漠然とした記憶にもとづいてあらかじめ考えたことが、観ているうちに次々と廃棄される。ひとつひとつが更新されていく。前に観た映画というのは、ほんとうにおぼえてないものだ。それが自分として、かなり好きな映画だと思っていた場合でもである、いや好きであればあるほどおぼえてない、というか、好きであればあるほど誤解しておぼえているのかもしれない。


杉村春子の家を出て、原節子は、自宅に戻って兄や両親から猛烈な勢いで色々言われて、そこで初めて笑顔を失った状態で俯いている。しかし、翌朝にはいつものように出社していて、会社をたずねてきた杉村春子から、心のうちを再度確かめられて、両親や兄さんにも話したの?と聞かれて、やはり同じ笑顔をむけて、はい、はい。と答える。この何度も出てくる笑顔の同じさに、つよくうたれる。「麦秋」はもう終盤に差し掛かっているが、じつは意外とまだ結構続く。この時点で、終りまであと二十分以上ある。