「囀りとつまずき」

数日前から、三宅誰男「囀りとつまずき」を読んでいる。(https://bccks.jp/bcck/147019/info) 現在、百ページくらいまで読んだ時点での感想。


ひとつひとつが独立した断章形式だから、前後は断絶されていて、ことなる時間と場所での出来事、それを順々に読んでいく。…ということは、断章ひとつひとつを読むことでもあり、それらを薄い関係性でつながったひとつながりの出来事の連鎖というか、直接連鎖はしてないのだが、無関係なはずのものが隣り合わされて連なりをもたされているのを、連続してみていくことによってなんらかの総体がうかびあがってくるのを感じるということでもある。


各断片が、最初の音が「あ」から始まるものを先頭にして、五十音で並んでいるのだということに「い」の途中あたりまできてようやく気付いた。そうなのか、だとすればこれはその規則にもとづいて機械的に並んでいるのか、異なるエピソード同士の配置、連続性が少しずつ醸し出すはずの持続的なイメージの調整が、作者によってなされているわけではなく、この連なりがもたらす結果は、事後決定的なものに過ぎないのだ。


ある意味、俳句集のような感じもある。たとえば手元にある山頭火句集には、巻末にさくいんがあって、そこには「遭ひたい、捨炭山が」「青空したしく」「青葉の奥へ」…と、頭文字から五十音順に並んでいるが、そういう検索性の良さというか、ひとつの断片へのアクセスしやすさが最初から完備されていて、言い換えれば小説的な入りにくさ、一度入り込んだら出口から出てくるまでは何が起こっているのかわからないようなブラックボックス的な要素が薄いというか、そういう闇雲さは、あえて排除されているようにも思われる。


とはいえ、異なるエピソード同士の配置、連続性が少しずつ醸し出すはずの持続的なイメージそのものがこの構成によって消えるわけではなかった。やはりこれは、どうしても僕は、小説のように読んでしまっているのだが、冒頭の…薄暗い場所からはじまって、身の周りの些細な出来事への視点が続くかと思うと、老人、病人、葬儀的なイメージが続いて、鬱屈したムードに包まれて、と思っていると、いつのまにか少しずつ、(とくに「か行」に入って)やけに若い女性が連続して出てきて、ケンカとか自意識だとかの青臭い匂いがふいにたちこめてきて、そのふわっと香るような華やいだ雰囲気をまた通り抜けると、…といった調子で、ある種の出来事の連鎖性を、どうしても見てしまう。それらは、作者によって調整された結果ではなくて、自然にというか、現実的な出来事に近いものとしてあって、人間的な意思と関係なくつなげられているからよけいに濃厚に感じられるような気がするところが面白い。


しかし、奇妙な文体だ。奇妙な語り口。これは実のところ、本当に成功しているのだろか?という思いは、何度も感じる。なぜこの文体、この語りの形式でなければならなかったのだろうか?とも思う。ごく素朴に、いったいこの語り手は何時代のどんな立場のどういう人間なのか?と思う。


疑似文語というのか、疑似耽美・内向系というのか、しかしちっとも耽美ではない。むしろごつごつと抵抗の大きい、本来はその組み合わせでないはずの言葉の組み合わせがいっぱい出てくる。が、冗長さはなく、流れてしまう部分もなく、きっちりと刈り込まれている。迷いとか曖昧さの要素はなく、こう言っては言い過ぎかもしれないが根拠のない自信に満ちている。いや、そういう一枚岩な態度そのものを少しずらして、微妙な居心地悪さを醸し出させながら、それを本人は見て見ぬふりで平然としたまま、自らの語りを重ねることに躊躇はいっさい無い、という感じでもある。


何しろ奇妙なのだ。その是非をいま性急に言うことはしない。まだ先は長いので。でも、小説だ、これはとにかく、僕は、小説だと思ってまだ進むぞ、と思う。


そもそも、小説であるというのはどういうことか、ということで、これはもちろん人それぞれだろうが、まず最初の時点で、小説的な打撃性をもってそれが始まっているかどうかは、大きいと僕は常々思う。


たぶんそれは、まず書く人が、さあこれから延々とやるぞ、どうなるかわからないものに挑戦するぞ、という蛮勇と不安をかかえて書き出さない限りはあらわれないものだと思われ、もちろんそれだけでは足りないが、それを欠いたらその文章はぜったいに小説的な書き出しにはならず、したがってその後えんえんと長距離航海が続くこともないと思われる。何か得体のしれない緊張、試みる直前の静寂というのか、滑稽さすれすれの無謀で勝算の見込みなどいっさい見えない謎のはたらき、そのスタートの瞬間ということだ。そのあとどうなっていくのかは、まだ誰も知らない状態で、まずはそういう始まり方であらわれたものを、小説(かもしれないもの)と、一応呼ぶのだと思う。


「あかりの落ちたテナントビルの通りに面したその窓辺にうっすらとたつ人影を見あげてたちどまった連れあいが」…と、それが始まったとき、まず、それを信じたいと思いながら、読み始める。さあ、どうなることか、こちらも付き合うから、行ってみてくれ、とおもいながら進むのである。


おお、小説だ!と思った箇所。この本、「囀りとつまずき」は、すごく良い!と思えるときは波がぐっと高まるように、しばらくのあいだ、良い断章が続くし、そうでもないかも、と思えるときは、やはりそれがしばらく続くような印象があって、そういうところも面白いというか独特の不思議さなのだが、正直、質のばらつきはけっこうあるのかな、とも思う。全体を、もっとばっさりスリムにしてしまう選択もあったのかもしれない、などと想像もする。でも質を優先して、品揃えの良さ、見た目のわかりよさ、愛想の良さ、を優先するのは、小説的な態度とは言えない、だからこれでいいのだ、この膨大な分量こそが必要なのだ、とも思う。


で、現時点で書いておくとすれば、今のところ、僕としては「首もとにゆるく巻いた黒いショールに」の一片。これ、すごく良くないか?

首もとにゆるく巻いた黒いショールに鼻先をうずめるようにしてちぢこまる仕草のいかにも寒々しくみえるものの、たまたまとなりあわせた偶然の関係にしては分不相応とみえなくもないのではないかとうたがう自意識がうるさく、配慮のうらに事実かすかにひそんでいるものを勘ぐられるのではないかとおそれる気持ちもあってなかなかどうして行動にいたらない。何の気なしをよそおうにはたっぷりのひとときをおいてようやく、ほとんど一世一代の賭けのようなおもいきりでもってなかば閉じられてあった丈のみじかいうぐいす色のカーテンの蛇腹をひきよせ日射しを呼びこめば、昼さがりにもかかわらずすでにいくらか赤く色づきはじめている暮れどきめいた光線がむすびのほどかれたすきまから鋭角的に、列車の進行方向から座席のこちらにむけてななめに切りこむようにしてまばゆく侵入する。射しこみ口を頂点とするひかりの三角形の、進行につれて音もなくのびひろがっていく二辺がこちらのひざがしらをかすめてかたわらの座席に深くもたれる女の腰の高さに達し、水位のみるみるうちに上昇するようにしてまもなくその口その鼻を窒息せしめるほどとなれば、もはやしかめられた横顔を視認するまでもない。それかといってすぐさまとりつくろうわけにもいかぬ賭けにやぶれたばかりの身の上である。次のよそおいが充填されるまでのひとときの経過をほかのだれよりもじりじりとして待ちわびながら、気配り知らずの汚名をそしらぬ顔で耐えしのんでいる。


ここでの、カーテンが開けられてからの日差しの動きこそ、小説という形式だけが実現可能なアクションなのだと思う。したがって、このアクションが実現されている時点で、これはもう小説!となって僕などは喜ぶわけだ。これは、単に光が動けばよいというような単純な話ではなくて、アクションというのは開始位置から、動きのスピード、移動距離、着地位置、停止後の状態まで、すべてが合格点を越えないと成立しないので、こういうのはじっさい狙ってできるようなものではないようにも思うのだが、とにかくここではきわめて良質な小説的アクションが実現していると思う。…「射しこみ口を頂点とするひかりの三角形の、進行につれて音もなくのびひろがっていく二辺が」なんて、ふつうだと、こんな云い方だと煩くなってぜったいに成功しないようにも思うのだが、ここでは奇跡のように素晴らしい動きで、自分のひざがしらをかすめて相手の女性の頭部にまで、それが動いていくのだ。(で、相手が顔をしかめてしまうくらいの失態になってしまったがっくり感との配合もいいのだ。)


アクションであると同時に、それを成立させた車内と二人の位置、向かい合ってる空間、窓の外、温度、呼吸や動悸の気配、…それらの全感覚が、一気に活性化され、ざわめき立つ。光が動いたということで、その軌跡に触れたすべてが、まさに現実になる。このときはじめて、それを僕たちは、まるで夢に見たときのように「なつかしい」と思えるのではないか。


(…とはいえ、読んでいて「ここはちょっと僕は好きじゃないかも」という箇所も、けっこうあって、もちろん僕個人の感覚にもとづいた私見ではあるが、ところによっては批判的になりたい箇所もあるのだが、まだ全体の三分の一くらいなのだし、それはまた後日、書くことにしましょう。)