はだかのゆめ

シモキタ-エキマエ-シネマK2で甫木元空「はだかのゆめ」(2022年)を観る。

幽霊的な存在と幽霊ではない存在との見分け難さ。また各登場人物の何かへの執着あるいは未執着の濃淡。その力の加わり具合が、人間と景色の堺なく混ざり合っているような、ただそこに任意で広がってる風景だけを見ていたような感じだ。とはいえ唯野未歩子と青木柚の始終浮かぬ表情からは、ある種の息苦しさ、葬儀のときジッと黙って座ってるときの堅苦しさに似たものを感じもした。

上映後にヴィヴィアン佐藤(美術家、ドラァグクイーン)/甫木元空(監督)のトークイベントがあって、ここで語られていた以下の話はまさにその通りだと思った。曰く、死者(親)の残した遺品とか形見というものは、それを預かった遺族(子供)は、我ながら不思議なくらい、その「物」に対して価値とか意味を見出さないものだと。少なくともその「物」には、死者の何かが宿ってないことを実感する。死者の何かが宿る場所があるとしたら、それは子供である自分の存在自体がそれだと思う、と。自分が今も生きていることが、死者と自分との交点であって、死者を思うとしたら自分自身という存在を通してでしかないと。

だから遺品とか形見は、べつに無くてもかまわない。甫木監督の母親が亡くなった際には、祖父はその遺品を平然とどんどん捨ててしまうので驚いたし、自分はそれら遺品を一応残すようにはしたけど、それは「周囲や世間や常識への配慮」としてそうしただけだと。

所々で、一昨日観た「雪の断章 -情熱-」を思い起こさせるものがあった。それは自分がそのようなモードに入っていたからで、二つの作品に似たところはないけど、まったく似てないわけでもないとも思う。そして「雪の断章 -情熱-」の濃さというか映画としての執拗さを、あらためて凄いと思う。