アンダーカレント

録音物としての音楽の音質について、その良し悪しに客観的な基準はない、というか、音質の良し悪しの基準と美男美女の基準はよく似ているかもしれない。美男美女なら基準の線が引けそうだと思う人もいるかもしれないし、百年前の映画に出てる絶世の美女はたしかに今でも美女かもしれないが、しかし時代のフィルターはどうしても掛かる。この時間フィルターの効果こそが、美女の美女性や音質の高音質性を決めているのではないか。

などということを、シャッフルでたまたま再生されたビル・エヴァンスジム・ホールのアンダーカレント(My funny Valentine)を聴きながら考えていた。音質として「鮮烈」な感じは、まるでなくて、モソモソっとした感じの、籠った音質で、しかもジム・ホールのギターのトーンも、ほとんどエッジがぼやけて見えず、あたかも水の中で揺らいでる輪郭の曖昧なものを聴いてるかのようで、ある種のはがゆささえおぼえるような、とはいえそれがそうだからこれであって、この曲の音質が良いか悪いかを問うても意味がなく、というかもしこの曲の音質が「今風」だったら、それはもはやアンダーカレントではない。音質というのはおそらく「今(かつて)こうだった」という事実を伝える説得力のようなものだろうか。質というよりも力なのか。