美男美女

何千人もの人の顔写真を集めて、それぞれの特徴を偏差として計算した結果から平均値に該当する顔を取り出したら、それはいわば美男とか美女の顔になるのではないかと想像する。つまり美男とか美女というのは、平均的な輪郭や目鼻口のサイズや形状や各部位の配置関係をもつ顔のことではないか。

しかしたとえば私が誰かを美人だと思うとき、それは相手の顔に、何か主観的なものを投影している。だから美人=希少なもの、高い価値を認め、唯一無比の衝撃的体験であり、一般性に還元できないかけがえない固有の魅力であると認識しているはずで、その顔がある集合の平均的な結果を示しているとは考えない。しかしそのことは美男とか美女が平均的な顔であることと矛盾しないはずで、むしろその顔が平均的であるがゆえに、投げかけられたイメージを反映するスクリーンとして高品質なはたらきをする、不特定多数からの主観の投影先としてもっとも適当な状態に調整された支持体だということを示すだろう。

ところで時代が流れて世代の台頭が繰り返されるとともに、人の顔立ちやプロポーションがじょじょに変容する、つまり最近の若い子って、女子はキレイだし男子もカッコいい子が多いねえ…などと言われるような、しかしそのような言葉はいつの時代でも、当世代が自分らより若い男女を見たときの印象として昔からくりかえし口にしてきた感慨であって、このことも顔の問題に関係するのであれば。

つまり時間の経過とともに平均化がさらにすすんで、今後も美男美女は増加する一方であるということ、このままさらに何十年何百年と経過するうちに、誰もがさらに美男美女へと近づいて、ということはすべての顔が平均値に向かい、偏差が極端に少なくなって、最後には誰もがほとんど同じ顔になる。美男美女の基準値に全員が到達する。つまりどの顔であろうと同品質のスクリーンなので、それらのどれか一つを選んで主観的イメージを投影させたいという欲望は弱体化する。こうして美男美女は世界からじょじょに消える。