ボブ・ディランの「風に吹かれて」を日本語詞で歌った忌野清志郎は「その答えは風の中さ、風が知ってるだけさ」と訳したのだが、これはたぶんそうじゃない。答えは風の中だとしても、風が知ってるわけではない。風に吹かれているのだから、訳すとしても、かならずそれが、あらわされてなければならない。風に吹かれて揺れている、あるいは路上を舞い散っている、あるいは旗のようにはためいてる、そのありさまが大事なのだと思う。

この曲でボブ・ディランが重ねる問いを、ものすごく乱暴にまとめるなら、ある運動量に対してどのように結果を測定できるかと、流れた時間に対して物事の変容をどのように測れるのか、ということになる。

しかし風も、ある時間の中で為される運動である。運動というよりも流れか。風がそのまま時間のようなものであるだろうか。しかし答えは風に吹かれて、時間の影響を受けるとしても、存在しないわけではない。存在するからそれに風が当たる。