子供の頃、お金持ちの家の子をうらやましいとは思わなかった。むしろお金持ちの家の子を、かわいそうな、あわれむべき対象にすら思っていた。彼らは誰もがおしなべて、でかくて薄暗くて古くて、湿っぽい歴史の澱の積み重なった、不気味な日本家屋のお屋敷に住んでいて、あんなところで暮らす子供が、幸福であるはずがないように思えた。
根拠とか、実績とか、信頼性とか、そのようなものを当てにしないというか、軽視してかまわないというコンセンサスが、どこからともなくやって来て、なぜか成立している。当時そのことは、子供でさえわかっていた。ぼくよりもはるかにそれを敏感、かつ正確に察知していた子供は、けっして少なくなかった。不幸なことに、お金持ちの家の子は、そうではない環境に生を受けた。悪い星のもとに生まれてきた子、そうとしか思えなかった。
お金持ちの子を憐れむ貧乏人の子。人並みかそれ以上に根拠なき自信家。当時の土壌で実ったその作物は、しかし今や貴重である。世が世なら、なかなか育つこともない変種なのだ。子供の時点で、充分に愚かであること、その愚かさを失わずにいられたらなおのこと。