This Is It

夕食後、なんとなくテレビをつけたら、マイケル・ジャクソンThis Is Itが放映されていて思わず見入ってしまった。ステージでダンサーたちとリハーサルするマイケル・ジャクソンの服装が何種類かあって、別日の撮影をつなぎ合わせているのだろうが、そのうちのグレーのジャケットに黒っぽいスラックスに、赤いシャツの開襟が大きく張り出している服装、全体的にはものすごく地味っぽいのにキレイなシルエットでいい感じだ。あんなシャツ、自分に着ることはできないわけだが、…でも、もうちょっとだけ地味目な原色のシャツを選べば、今あるグレーのジャケットに合わせてみたらどうだろう!意外に、いいんじゃないの?…などと一瞬想像してしまったのだが、そういう慣れないことはやめた方がいいと瞬時に正気を取り戻す。まあ一瞬だけでも、観る者をそんな身の程知らずな考えに引き込んでしまうくらいには、マイケル・ジャクソンという人はカッコいいわけだ。顔は怖いけど。それにしてもあれだけの運動量なのにものすごく痩せていて、あの細身のどこに持久力が隠されているのか不思議に思う。そしてそのステージングは、どこまで行っても熱量が変わらないというか、波が細かいというか、感情の抑揚がきわめて少ない、舞踏というものがそもそも、そういうフォーマットなのかもしれないが、本来はダンサーに個性など必要ではないというかのような、まったくの非自己表現、非人間的というか人の所作からいかに距離を置くかに賭けているかのような、だからこそ自身の仕草、ふるまい、型、すべてを完全に掌握して百パーセントに近いセルフコントロールを実践しようとするかのような、それこそふと能の世界が見えてしまうかのようなところもある気がした。

マスヒステリズム

帰宅途中の夜道で、シャッフル再生中のイヤホンから突如として高柳昌行の「マスヒステリズム」の3曲目が再生されて、これがじつに素晴らしくて10分弱のあいだうっとりと聴き入った。おおよそエレクトリック・ギターにおける最高純度のノイズが、うねりつつ高まりつつ沈降しつつ不断なく続き、ドラムスは矢継早いキックと飛散する鳴り物で場に深みを添え、それらが親和的に交差しあい、浸潤しあい、脈絡も目的ないままどこまでも続く。海面をじっと見ているときのように、見れば見るほど波のかたちが変化していくのがわかり、しかしさっきから同じことが永遠に繰り返されているだけではないかという予感もある。それにしてもギター、じつにうつくしく官能的な咆哮。ギターは本来こういうふうに演奏するための楽器なんじゃないかと思えてくる。

席替え

オフィスで席替え。PCやらモニタやらキャビネットやら椅子やらを移動する。移動先の人も別の場所へ移動するし、その人の移動先も移動準備中なので、物事の順序として自分をいちばん後発とし荷物を一時退避して、来るべき他人の移動を手伝う。ばたばたと夜遅くまでかかって、ようやく全員の移動が完了。とくに若い子なんか、みんな早く帰りたいだろうと思いきや意外にそうでもなくて、いつまでもずーっと整理をしてたり、思い思いに無心の体で自分の机上を整えている。早く帰って酒が飲みたいとか思ってるのは僕くらいなのか。そして座る向きが今までと反対になった。今まで見ていた方角とは真逆を向くことになる。こうなると視界や身の回りのすべてが、まるで鏡の映したかのような左右逆の世界に錯覚されて、ちょっと不自然感をこの先しばらく感じ続けることになる。

家事

来週は豊田市、名古屋、掛川、三島と、東海道沿線をめぐる旅行を計画しているので、一日目の夕食をとる店を絞り込む。旅の目的というか楽しみの割合としては豊田の岡﨑乾二郎展が5、掛川ハシビロコウが5、名古屋と三島のごはんがそれぞれ1だ。それだと10越えるけど、そういう割合で考えたい。あと中村佳穂のライブに行きたいとかねてから思っていたのに最近の人気急上昇で12月の新木場が早々に売り切れてしまったので、1月のオリジナル・ラブにゲストでコーネリアスと中村佳穂が出るという公演のチケットを買ったが、これが二枚でけっこう高い。午前中のうちにと思って、久々に靴を磨く。やらないときはいつまでたってもやらないが、やるとそれなりに真剣にやる。磨くというか、靴を間近でしげしげと眺めて、細かい傷やヒビを見て、補修剤で補えるところは補って、それでももう、ああずいぶんくたびれたなあと、ため息をつくような時間を過ごすだけだ。これを月一でやるなら素晴らしいのだが、そんなことはなくて、次はいつになることやらだ。先週は、これも久々に包丁を研いだけど、これだってもっと頻繁にやるべきなのだが、億劫がってなかなかやらない。しかし切れない包丁はほんとうに切れないもので、このまえ玉ねぎの頭を軽く落とそうとしたら、その刃がなかなか入っていかないことには驚いた。おまえ包丁のくせに玉ねぎすら切れないのかよとあきれた。まあそれは何もしない使い手が悪いので、それでようやく研いだのだが。研ぐとそれなりに切れるようになって、そうなるとそれなりにやはり気分のいいものだ。あとシャツのアイロン掛けも久々にやった。アイロン掛けは、それをやりながら音楽を聴いていると、不思議な集中モードに入れるところはいいけど、これを毎週やるのは大変なことだ。毎週やってくれている妻には、頭が上がらないのであります。午後になって、先ほど磨いたうちの、ソールがやばい靴の靴底を貼り替えてもらうために駅前まで行く。昔からそんな値段だったかおぼえてないけど、一足貼り替えだけで、そんなに高かったっけ?と思うほど高い。支払ったら、がっつり体力削られた気分。姪の子の誕生日の贈り物は、さっきウェブで注文したからもう大丈夫。スーパーで今日の食材とともに、ティッシュペーパーと、コーヒーと、玉子と、唐辛子と、あと何か忘れたけど諸々を買う。財布に現金がないのでSUICAで払い、そういえばこのあとセブンイレブンでチケットの代金を払わなければいけないことを思い出して、ATMに行くのは遠回りなのでSUICAにさらに多めにチャージしてコンビニに行ったら、チケット支払いはSUICAだと出来ないとのこと。仕方なくその場のセブン銀行で現金を用意して支払う。なんか引き出しばかりで、ものすごくお金を使った気がする。

Sounds On The Beach

ビーチ・ボーイズの"Girls On The Beach"を聴いていると、ほとんど廃人同然になってしまう。すべての判断能力を奪われ、すべての好悪が、すべての欲望が解体されて、ただ痴呆的なぬるま湯にじっと浸かって薄笑いを浮かべているだけみたいな状態になってしまう。しかしその音を聴いているうちに、やがてふと連想がはたらいて、青臭いクソガキたちの叫び声や喘ぎ声の系譜が思い浮かんできて、それがたまたま、Damnedの「Damned Damned Damned」に直結される。ビーチ・ボーイズから続けて聴いても、さほど違和感をおぼえないのは意外でもあるが当然にも感じる。じつは遥か昔ビーチ・ボーイズの体内にけっこうな割合で含有されていたパンク性が、Damnedにおいて滲み出るかのように現れているのか、逆にイギリスのパンクとは多かれ少なかれ性急な直情性を増幅させただけの、かつてのアメリカ男性コーラスグループのフォーマットに過ぎない、ということなのか、たぶんそれはそのどちらでもあるのだろうし、少なくとも「Damned Damned Damned」はビーチ・ボーイズみたいだと僕は思うし、人が何と言おうがそこは強情にそう思うと云い張りたいところだ。

イギリス音楽は本来自分たちのものじゃない駒を使って自分たちの将棋をしているのが面白いのだと思うが(最近もそう言えるのかどうかは留保が必要だろうが。かつ日本も。)、パンクも今となってはそういう音楽の典型に思える。レゲエの解釈もそうだ。イギリスの職人たちが手掛けた見事な技はいくらでもあり、前後の脈絡は欠いたまま、その場だけで光り輝く凄みは、いつでも魅力的に思える。

話は変わって、部屋でデカい音で聴いてると妻が激怒するので仕方なくイヤホンで聴くのは山下洋輔トリオだ。山下洋輔トリオを聴きたいという身体的枯渇感が久々に戻って来た。一旦そうなるとしつこくそれを求め始めることになる。「Up-To-Date」はずいぶん昔からインポート済みだ。ボリュームをフルテンにして"Duo, introduction"を聴く。やばい。森山威男がやばすぎる。山下洋輔トリオって、ピアノ3、サックス3、ドラム6ではないかと思う。それだと10越えるけど、そういう割合にしたいような感じなのだ。これを聴いて血の気が引き、脈拍が上がり、呼吸が乱れ、鳥肌がおさまらず、目の前が白くなるというのは、いったい何なのかと思う。ズレズレが同期し、併走して、また乱れる。その周期がゆったりしていると思うと、ふいに息継ぎ不可能なほど矢継ぎ早になって、わかりやすい盛り上げをハイハイとやり過ごしながらも、確実に人間の領域を越えそうになる瞬間があって、どうしても目がうつろになり、陶然とする。時間を細切れに文節して文節して、どこまでも際限なく、しかしふいに今に戻り、その前後を非人間的に行き来して土台を揺るがす、その状況への恐怖となぜか裏側に張り付いてる歓喜、ということだろうか。なにしろ確実に、だれも触れない時間のある壁に直接穴が空いてる感触があるというか、取り返しのつかなさが出来事として起きてしまった感がそこにはまざまざとある。たぶんこれはビーチ・ボーイズと融合するものではない。そういうのとは別のことだ。Damnedがやや併走すると考えることもできるし、同じように聴くことも不可能ではないかもしれないが、それともやはり違う。昨今のリズムをいじくりまくってるジャズとR&Bの感覚が、いちばん近いのかもしれない。というか、少なくとも僕はジャズをそういうリズムの冒険としてしかとらえてない気がする。とくにフリージャズを聴くときは完全にそうだ。テクノを聴くときとフリージャズを聴くときは、僕は完全にそうだ。おおざっぱに言えば黒人音楽の解釈の果てにあるジャンルとして、テクノもハウスもフリージャズもある。そうではないと、僕はややつらい。ゆえにフリーはいいけどアヴァンギャルド全般はやや警戒心があって、ジョン・ケージデレク・ベイリーも、聴かないことはないけど親愛の情を感じる部分はあまりないし、テクノだとデトロイト経由じゃないベルリン周辺とかイギリス系にはほぼ疎い。ミニマルでも血の奥底にジャマイカとかアフリカがあるかないかが重要だと思っている。なるほどですね。

オンライン

残念ながら短期で去ることになったゲーム女子と小さな送別会をひらいてお別れした。

ゲーマーは、そのゲームの世界観が好きで、それに賛同する仲間たちとのひとときが好きである。彼女らはSNSを使ってやり取りしながらチームプレイして、戦果を分け合いアイテムを入手し感想を言い合って、お気に入りキャラクターのセリフを語って、好きなイラストを紹介しあい、また翌日にログインする約束を取り交わす。彼女の今にとって、それらの時間がほぼすべてで、それ以外のことに意味も価値も見出せないし、見出す気もあまりない。不満や不安ややりきれなさや悲しさとかはべつにない、よろこびもない、予想外な幸運の到来に期待するわけでもなく、突然ぼやっとした不安にかられて保険の各種商品を調べはじめるようなこともない。会社からは、うるさいことを言われもするし、些細な面倒ごともないではないけど、あまりまともにかかわる気も、気に掛ける気もない。家に帰って、コンビニで買ってきたごはんを食べて、甘いカクテルのお酒を飲みながら、アプリを起動したら仲間がすでにオンラインだ。それを確認して、いくつかのメッセージを打ち込んで、またいつものようにその場所へ行く。

ちなみにIHです。でもうちのIHは火力けっこう強いです。IHは使ってないとき上に物を置けるから便利なんですよ。キッチンむちゃくちゃ狭いんで物置けると助かるんですよ。

僕は結局、この女性と一か月以上ランチの時間を一緒に過ごして、今宵の送別会でお別れしたのだが、これを書いてる今、現時点において彼女はすでに僕のことを忘れてしまったのではないだろうか。明日になれば、もう何事もなかったかのようにその生活は引き続いて、もう彼女にとっては僕の存在していた事実さえ怪しい。もちろん僕も、これを書いてその後しばらくしたら、君を忘れてしまうかもしれないが。

しかし、おそろしいことに、この世に両者とも存在している。

幸福

死にたくなるほどの孤独を感じたことは、たぶん一度もない。あるのかもしれないが、記憶にない。寂しさや人恋しさという感覚を人並み程度には知っているつもりだが、孤独感に苛まれて一晩中涙に暮れた経験もないし、自分自身がそこまで追い詰められてしまうのを、自分自身でじっと見つめ続けたこともない。たぶん僕はそのあたり、深みにハマる手前でそこそこ「上手くやる」小狡い人間であり、収容所において組織化することで生き延びた者たちの仲間かもしれないとも思っている。孤独感というのは死のように、自分にとっては、はかりがたくおそろしいもので、それゆえ死と同じく僕はまだ一度も経験したことがないのかもしれない。他人が、あるいは書物や映画に描かれた人物が、寂しさや孤独にさいなまれているのを知って、感情が動かされることはあるが、つまり自分にとっての孤独とは「かわいそうなな誰か」の在りようということなのだろうか。苦痛の只中にいる人間に、自分自身を「かわいそう」と感じる余裕はなく、それを見ている別の者がそう思い、直視していられずに目を背けたくなる。あるいは、何とかしてあげたいと思う。孤独もそうで、私が孤独であることと、他人が孤独であることは、たぶん結びつかないのだが、それを結びつけて考えないわけにはいかない。

空気を読むとか、多勢に同調するとか、長いものに巻かれるとか、そのたぐいのことは、たぶん生きる上で多少なりとも身に付けておく方が良いのかもしれない処世術である。それは、本来の自分を、適度にあきらめるということでもあるし、自分を他人のように見なしてケアするということでもある。また周囲に流通している価値や感覚や言葉を、私のものとして受け入れることでもある。私がそれを理解して納得していると、私に信じさせるための努力のことでもある。

私が私に信じさせたいもののことを、幸福と呼ぶのかもしれないが、人は往々にして、私が私に信じさせたいものについて、本当はそうじゃないものをそれだと思い込む。そしてそれは、本当はそうじゃないものをそうだと思い込んでいる方が、だいたい滞りなく物事がはこんだりもするから、それはそれで、そんな自分とそんな自分の周囲と上位の誰かにとっては、都合が良いことなのかもしれないのだし、そこそこ上手く自分と折り合いを付けて、そこそこ幸福だと信じながら生きるのが本当の幸福ではないなどと、誰が断言できるのか、むしろ誰もがそうなっちゃえば良いじゃない、という言葉の真贋を判定するのに手掛かりはなく、自分自身で決めるしかない。

でもその悲しみや不幸が、物質的と云いたいくらいの重みと実在感をたたえているのに、私がもつ幸福のイメージはいつでも頼りなくて、しかもなけなしのそれを守りたい気持ちの方が先に強く沸いてしまって、終わらない道がどこまでも続いているのをみて途方に暮れる。だからこそ幸福について話をするのは、とても難しいのだが、そもそも芸術とは幸福について考え、それを実際に手に触れるための、やみくもな挑戦のような行為のはずで、そんなとてつもなく壮大なことをやっているのは、相当わけのわからない人だという事なのだが、しかし本来は誰もが、その試みと無縁じゃないはずなのだ。

数か月前に引用した橋本治の以下の言葉が、僕はほんとうに好きなので、再引用したい。

一歩一歩、知らない間に埋め立てられてって姿を表わした陸地の上に立って、そしてそれでその先を眺めて見ると、それはもう、前とは全然違った基準に立って物事を考えるのとおんなじなんだよね。それはホントにちょっとずつだし、何がどう変わっていくのかもホントのところはよく分からないけども、でもやっぱり、それは妄想の中にいる自分の考えてた未来っていうのとは、やっぱり全然違うものなのね。考えてるようでいて実は、妄想という名の離れ小島の中にいる時人間は、「自分の未来なんかなんにも考えてなかったんだ」って、そのことだけは分かんないでいるの。いくらそれがどうにもならないことでつらいからって、泣いたり喚いたりしたって、妄想の中で考えてる“その先”っていうものは、実は、一番安易でいい加減なものなのね。そんなもの分かってるくせに、でも、それを考えてる自分のいい加減さを認めるのがいやさに、妄想っていうものを強固にしてくのが、大人の世界の恋愛なのね。

(中略)

妄想の元になるようなものを外気にさらして、そのことによって生まれる現実と、海の中に消えてく妄想とを振り分けて、そうやって、ほとんどなんの意味もないような“幸福”っていう新しい領土を踏みしめていくことの方が、恋愛っていう立派な妄想の中に閉じこめられることよりもなんぼか幸福かって思うの。