幸福

死にたくなるほどの孤独を感じたことは、たぶん一度もない。あるのかもしれないが、記憶にない。寂しさや人恋しさという感覚を人並み程度には知っているつもりだが、孤独感に苛まれて一晩中涙に暮れた経験もないし、自分自身がそこまで追い詰められてしまうのを、自分自身でじっと見つめ続けたこともない。たぶん僕はそのあたり、深みにハマる手前でそこそこ「上手くやる」小狡い人間であり、収容所において組織化することで生き延びた者たちの仲間かもしれないとも思っている。孤独感というのは死のように、自分にとっては、はかりがたくおそろしいもので、それゆえ死と同じく僕はまだ一度も経験したことがないのかもしれない。他人が、あるいは書物や映画に描かれた人物が、寂しさや孤独にさいなまれているのを知って、感情が動かされることはあるが、つまり自分にとっての孤独とは「かわいそうなな誰か」の在りようということなのだろうか。苦痛の只中にいる人間に、自分自身を「かわいそう」と感じる余裕はなく、それを見ている別の者がそう思い、直視していられずに目を背けたくなる。あるいは、何とかしてあげたいと思う。孤独もそうで、私が孤独であることと、他人が孤独であることは、たぶん結びつかないのだが、それを結びつけて考えないわけにはいかない。

空気を読むとか、多勢に同調するとか、長いものに巻かれるとか、そのたぐいのことは、たぶん生きる上で多少なりとも身に付けておく方が良いのかもしれない処世術である。それは、本来の自分を、適度にあきらめるということでもあるし、自分を他人のように見なしてケアするということでもある。また周囲に流通している価値や感覚や言葉を、私のものとして受け入れることでもある。私がそれを理解して納得していると、私に信じさせるための努力のことでもある。

私が私に信じさせたいもののことを、幸福と呼ぶのかもしれないが、人は往々にして、私が私に信じさせたいものについて、本当はそうじゃないものをそれだと思い込む。そしてそれは、本当はそうじゃないものをそうだと思い込んでいる方が、だいたい滞りなく物事がはこんだりもするから、それはそれで、そんな自分とそんな自分の周囲と上位の誰かにとっては、都合が良いことなのかもしれないのだし、そこそこ上手く自分と折り合いを付けて、そこそこ幸福だと信じながら生きるのが本当の幸福ではないなどと、誰が断言できるのか、むしろ誰もがそうなっちゃえば良いじゃない、という言葉の真贋を判定するのに手掛かりはなく、自分自身で決めるしかない。

でもその悲しみや不幸が、物質的と云いたいくらいの重みと実在感をたたえているのに、私がもつ幸福のイメージはいつでも頼りなくて、しかもなけなしのそれを守りたい気持ちの方が先に強く沸いてしまって、終わらない道がどこまでも続いているのをみて途方に暮れる。だからこそ幸福について話をするのは、とても難しいのだが、そもそも芸術とは幸福について考え、それを実際に手に触れるための、やみくもな挑戦のような行為のはずで、そんなとてつもなく壮大なことをやっているのは、相当わけのわからない人だという事なのだが、しかし本来は誰もが、その試みと無縁じゃないはずなのだ。

数か月前に引用した橋本治の以下の言葉が、僕はほんとうに好きなので、再引用したい。

一歩一歩、知らない間に埋め立てられてって姿を表わした陸地の上に立って、そしてそれでその先を眺めて見ると、それはもう、前とは全然違った基準に立って物事を考えるのとおんなじなんだよね。それはホントにちょっとずつだし、何がどう変わっていくのかもホントのところはよく分からないけども、でもやっぱり、それは妄想の中にいる自分の考えてた未来っていうのとは、やっぱり全然違うものなのね。考えてるようでいて実は、妄想という名の離れ小島の中にいる時人間は、「自分の未来なんかなんにも考えてなかったんだ」って、そのことだけは分かんないでいるの。いくらそれがどうにもならないことでつらいからって、泣いたり喚いたりしたって、妄想の中で考えてる“その先”っていうものは、実は、一番安易でいい加減なものなのね。そんなもの分かってるくせに、でも、それを考えてる自分のいい加減さを認めるのがいやさに、妄想っていうものを強固にしてくのが、大人の世界の恋愛なのね。

(中略)

妄想の元になるようなものを外気にさらして、そのことによって生まれる現実と、海の中に消えてく妄想とを振り分けて、そうやって、ほとんどなんの意味もないような“幸福”っていう新しい領土を踏みしめていくことの方が、恋愛っていう立派な妄想の中に閉じこめられることよりもなんぼか幸福かって思うの。