Sounds On The Beach

ビーチ・ボーイズの"Girls On The Beach"を聴いていると、ほとんど廃人同然になってしまう。すべての判断能力を奪われ、すべての好悪が、すべての欲望が解体されて、ただ痴呆的なぬるま湯にじっと浸かって薄笑いを浮かべているだけみたいな状態になってしまう。しかしその音を聴いているうちに、やがてふと連想がはたらいて、青臭いクソガキたちの叫び声や喘ぎ声の系譜が思い浮かんできて、それがたまたま、Damnedの「Damned Damned Damned」に直結される。ビーチ・ボーイズから続けて聴いても、さほど違和感をおぼえないのは意外でもあるが当然にも感じる。じつは遥か昔ビーチ・ボーイズの体内にけっこうな割合で含有されていたパンク性が、Damnedにおいて滲み出るかのように現れているのか、逆にイギリスのパンクとは多かれ少なかれ性急な直情性を増幅させただけの、かつてのアメリカ男性コーラスグループのフォーマットに過ぎない、ということなのか、たぶんそれはそのどちらでもあるのだろうし、少なくとも「Damned Damned Damned」はビーチ・ボーイズみたいだと僕は思うし、人が何と言おうがそこは強情にそう思うと云い張りたいところだ。

イギリス音楽は本来自分たちのものじゃない駒を使って自分たちの将棋をしているのが面白いのだと思うが(最近もそう言えるのかどうかは留保が必要だろうが。かつ日本も。)、パンクも今となってはそういう音楽の典型に思える。レゲエの解釈もそうだ。イギリスの職人たちが手掛けた見事な技はいくらでもあり、前後の脈絡は欠いたまま、その場だけで光り輝く凄みは、いつでも魅力的に思える。

話は変わって、部屋でデカい音で聴いてると妻が激怒するので仕方なくイヤホンで聴くのは山下洋輔トリオだ。山下洋輔トリオを聴きたいという身体的枯渇感が久々に戻って来た。一旦そうなるとしつこくそれを求め始めることになる。「Up-To-Date」はずいぶん昔からインポート済みだ。ボリュームをフルテンにして"Duo, introduction"を聴く。やばい。森山威男がやばすぎる。山下洋輔トリオって、ピアノ3、サックス3、ドラム6ではないかと思う。それだと10越えるけど、そういう割合にしたいような感じなのだ。これを聴いて血の気が引き、脈拍が上がり、呼吸が乱れ、鳥肌がおさまらず、目の前が白くなるというのは、いったい何なのかと思う。ズレズレが同期し、併走して、また乱れる。その周期がゆったりしていると思うと、ふいに息継ぎ不可能なほど矢継ぎ早になって、わかりやすい盛り上げをハイハイとやり過ごしながらも、確実に人間の領域を越えそうになる瞬間があって、どうしても目がうつろになり、陶然とする。時間を細切れに文節して文節して、どこまでも際限なく、しかしふいに今に戻り、その前後を非人間的に行き来して土台を揺るがす、その状況への恐怖となぜか裏側に張り付いてる歓喜、ということだろうか。なにしろ確実に、だれも触れない時間のある壁に直接穴が空いてる感触があるというか、取り返しのつかなさが出来事として起きてしまった感がそこにはまざまざとある。たぶんこれはビーチ・ボーイズと融合するものではない。そういうのとは別のことだ。Damnedがやや併走すると考えることもできるし、同じように聴くことも不可能ではないかもしれないが、それともやはり違う。昨今のリズムをいじくりまくってるジャズとR&Bの感覚が、いちばん近いのかもしれない。というか、少なくとも僕はジャズをそういうリズムの冒険としてしかとらえてない気がする。とくにフリージャズを聴くときは完全にそうだ。テクノを聴くときとフリージャズを聴くときは、僕は完全にそうだ。おおざっぱに言えば黒人音楽の解釈の果てにあるジャンルとして、テクノもハウスもフリージャズもある。そうではないと、僕はややつらい。ゆえにフリーはいいけどアヴァンギャルド全般はやや警戒心があって、ジョン・ケージデレク・ベイリーも、聴かないことはないけど親愛の情を感じる部分はあまりないし、テクノだとデトロイト経由じゃないベルリン周辺とかイギリス系にはほぼ疎い。ミニマルでも血の奥底にジャマイカとかアフリカがあるかないかが重要だと思っている。なるほどですね。