大船国

横浜から上野東京ラインの上り電車に、毎日乗って帰宅するのだが、いつものようにボーっと上の空で乗車して、しばらくしてふと気付いたら、電車は大船駅に着いたところだった。わー!っと思って飛び降りた。なぜ反対の方向に乗ってしまったのか、さっぱりわからない。今まで何百回、同じホームで同じ方面の電車に乗っていると思っているのか、どうすればそんな間違いが可能になるのか、小一時間問い詰めたい思いである。しかも次駅の戸塚で、そこを川崎に着いたものと思っていてやり過ごし、次の大船を品川に着いたと思って、なおもボケっとしていたのだ。たまたま開いたドアが、品川で開く方と反対だったので、あれ、なんかおかしいな、いつもとちがうなと思って、周囲を見回したら、あれー、外の風景が、いつもと違う…と思って、あれ、これはもしや、あれか、あれだな、あれだな、と思って、じわじわと現実を受け入れて、わー!っと心でで叫んで、やっちまった、あーあ、ここはもう、耐えがたきを耐え、受け入れがたきを受け入れ、受容のこころで静かに引き返そうと心に決めて、電車を降りたのだった。ああいうとき、突然異国の地に放り出されたかのような気持ちになるし、周囲の乗客もまるで別の人種ばかりに感じられる。ほんの一瞬だけだが(上野を誤って乗り過ごし忸怩たる思いで尾久あるいはその先の駅に降り立つときも同様)。

ヨドバシポイント

去年の夏、財布を紛失して、失くしたものは仕方がないのだからと、もうあきらめているし、もう忘れていた。…そうしたら、つい先ほど警察から連絡があって・・・などという話であれば良かったのだが、そうではない。

貴重品の紛失というのは、アフターの手続きが死ぬほど面倒なのが一番つらくて、現金はサッパリとあきらめるしかないから、逆に後悔のつらさはさほど大したことなくて、純粋な損失としては現金のほかは財布自体とか、その程度でしかなかったりする。金品を失うダメージよりも、精神的なダメージや時間浪費のダメージの方がキツイとさえ言える。

ただ「もったいなかったなあ…」と、今日になってふいに思い出したのはヨドバシカメラのポイントカードで、あれにはかなりの年月分のポイントが貯まっていたのだ。

それがきっかけで、ふと思い立って、もしやと思って、ヨドバシのサイトを検索してみた。そしたらなんと、ヨドバシのポイントカードは紛失処理も可能だし再発行も対応してくれるんじゃないか!とわかって、今からでも遅くはないかもと思って、ただちに問合せ先に電話した。身元を伝えて残高を確認したら、とくに不正利用された形跡もなく、あっけないほどさっさと手続きが進んだ。

会社の帰りに近くの店舗で再発行してもらって、こうして我がポイントが無事手元に戻ってきた。紛失から一年半ぶり。良かった。しかし我ながら、なぜ今になるまで気付かないのかとは思う。

ちなみに、ヨドバシポイントのことを思い出した理由は、水泳時に使うウォークマンが昨日壊れてしまって、買い替えが必要になったからだった。

泳ぎよう

今日も水泳をして、いつもの時間分、いつもの泳距離で終わった。ここまで来ると、マンネリズムを通り越してほとんど儀式みたいである。週二、三回を心がけてジムに通い始めてすでに四年が経過したわけだ。四年…。そんなに続けているなら、さすがに以前と以降とで身体に圧倒的な差が出たとか、そこそこ大きな成果が出たとか、そうあってしかるべきなんじゃないのか。だって趣味であれ仕事であれ、人が一つのことをくりかえし四年も修練したら、誰だって多かれ少なかれそれなりの熟練と向上を見せるだろうし、さすがに素人レベルは脱するだろうし、私はこれをやってますと他人に胸を張って言えるくらいの手ごたえは感じるものだろうし、そうあるべきじゃないかと思う。しかし自己を鑑みてどうだろうか。自分はほんとうに水泳を四年も続けて、今もやってるのだろうか?

やっぱりやり方が、とにかくただ泳ぐだけ、それしかなくて、それ以外の目的を意図的に消しているというか、目標が繰り上がっていかないようにはじめからリミットかけた状態で取り組んでいるというか、そんな態度だからだろう。自らそれを望んでいるのだ。疲労から湧き上がってくるドーパミン分泌による高揚をともなったかすかな快楽の気配、それとイヤホンで聴く音楽、それだけをモチベーションに継続しているのだ。それはたしかにそうなのだが、しかし進歩の無さというのを自覚すると、さすがに「それでかまわない」とは思い辛くなる。何かしら「やりよう」を考えたくなる。こういうのも、ある種の「弱さ」かもしれない。

甘い罠

反省はしてない。悲観もしたり楽観したりすることもない。自信はない。そもそも未来に何も期待してない。試験対策も受験勉強もやってない。前向きな気持ちがない。教師や親とは視線を合わせない。進路は決めてない。将来の夢はない。進学するとか、就職するとか、家庭をもつとか、子供をもつとか、金持ちになるとか、貯蓄をするとか、投資をするとか、そういった一切から顔を背けて、要するに、今これだ。この時間の幸せだけを問題にしていたい。まるで無根拠に、まるで脈絡なしで、ひたすらゴキゲンで、何もかもが楽しいことばかりに満ちていて、でもそれは儚くて、せつない感傷に満ちている。部屋で一人、爆音で音楽を聴いている。

冷静な視点や知識の大切さを頭ではわかっている。しかしどうしようもなく幸福な今という枠の内に、自分はいつまでもとらわれたままで、何も身につかぬままで、何も残らぬままで、今この幸せに浸っている。言葉では説明できない、こころのなかの不思議な高揚感と落ち着かなさ、掴みようのなさに、この曲が、今だけはっきりと形をあたえてくれているみたいだ。これは音楽というよりも鏡みたいなものだ。これは音楽であると同時に今ここにいるこの自分を説明するものだ。

深夜、中学生は思う。ライブat武道館収録の「甘い罠」で観衆の"cryin'"コールは本当にすごい。今から四十年以上も前に、日本のロック女子たちは、本当に素晴らしく偉大な人たちだった。

あぶく銭

昔にどの程度、そういうお金が現実に存在したのかは知らないけど、おそらく今はもう「あぶく銭」というものが世の中からほぼ尽きたのではないかと想像する。「あぶく銭」は、かつてどこにあったのだろうか?それはお金持ち、あるいは成金、あるいは大してお金がないのに派手に使い散らす人たち。そういった人たちの財布やポケットからこぼれおちてくるお金のことなのだと思う。あるいは会社の予算内訳や会計に明記されない、あるいは別名義で、あるいは堂々と明記される支出金でもあったと思う。

そんなお金は今でも、どこかにはあるのだろうけど、それでも川が干上がるように、水量が激減するかのように、かつて何十トンも魚の獲れたある沿岸の水揚げ量が、近年まるで不漁になってしまったかのように、あぶく銭も、いつの間にか消えてしまったのだと思う。それによって、あぶく銭を食べて生きていかれるはずの人たちも、いつの間にか、皆死滅してしまった、あるいは息も絶え絶えでエラをパクパクと喘いでいる、ほとんど死に瀕した状態なのだと思う。それで良い、それが真っ当だと考える人もいるのはわかる。しかしそのことによる損失もまた計り知れないのだと、そんな想像をすることも、できなくはない。

室内

芸大美術館の陳列館で「日比野克彦を保存する」を観た。

(https://hibino-hozon.geidai.ac.jp/)

複数の人々によって撮影されたアトリエにいる滝口修造をとらえた写真群が印象的だった。もちろんこの部屋と本人、共に有名でどこかで何度も見たことがあるけど、それにしてもまあなんてカッコいい人と部屋だろうと、思わずじっと見入ってしまった。

そしてやっぱり、パソコンというのは、無粋なものなんだなあ…とつくづく思った。あれが人々の部屋に入り込んできたおかげで、こういうアトリエや書斎というものが、絶滅してしまったんだろうなと。あと、喫煙の習慣というものが、この世から抹殺されかけているせいでもあるような気もする。いずれにせよ、もうこのような部屋の住人として生きることは、もはや誰にもかなわなくなってしまったのだろう。

(たぶん、パソコンだけなら、そこまで酷いことにはならなかったのだと思う。タイプライターやワープロの仲間みたいなものに過ぎないのだから。やはりインターネットに接続してしまったことが致命的だったのだと思う。接続しても良いけど、せめて自室からの接続は、やめておくべきだったのかもしれない。自室というものを壊してしまうということに、早く気付くべきだったのかもしれない。せいぜい特定の公衆電話回線からのみ接続するとか、ネットカフェでなければ接続できないとか、そういう世の中であってくれれば、まだマシだったのではないか。)

深夜

iPhoneに「探す」というアプリがあって、これを起動すると、あらかじめ登録済みのiPhoneについては、GPS情報が確認でき、紛失モードに変更したり、呼び出し音を鳴らしたりすることができる。紛失や盗難時に使えるし、ふだん部屋の中で自分のiPhoneがどこかへ紛れ込んでしまったときにも使える。ふだんは意識することもないが、いざというときには、便利な機能だ。

…ということを理解した時点で、すでに深夜2:30を回っていた。それまでのあいだ、てっきりお店か、帰宅途中に落としたものと思い、店に電話したり、家の周辺を含めて不審者よろしくうろうろと夜道を徘徊して、道端に落ちているかもしれない黒い端末を探し回ったりしてたのだ。。しかしなすすべなく、いったん気を取り直して自宅へ戻り、iPadから上記の機能を利用してみたところ、自室の机の奥から呼び出し音が鳴り響いた。帰宅直後に置いた机上から滑り落ちて、床の奥へ潜り込んでいたらしい。

財布だの電話だのを失くすのは、毎年一度か二度はやってる恒例行事みたいなものだが、本人は自業自得だから良いものの、気の毒なのは同居の家族であり、家族こそこの手の騒ぎにおける真の被害者であると言える。毎度同じことをくりかえして、少しは彼ら彼女らの身になってみろと、声を大にして言いたい思いである。