世界

大江健三郎万延元年のフットボール」の魅力は、それがある意味、このうえなく陰惨で、救いようのない物語であるにもかかわらず、なぜか心を躍るような夾雑の要素が多くちりばめられているところにあると思う。僕がはじめて本作を読んだのは二十代のときで、当時は読了しても小説の全容を把握することなどほぼ出来ていなかったように思うが、何しろそのカオスな世界観に強く惹かれたのを、今でもよくおぼえている。まず雪の谷間を走るシトロエンがすばらしいし、真っ赤に充血した目をして呆然とウィスキーを飲み続ける奥さんがすごいし、アジア衣装に身を包んだ桃の姿も、終戦後の暴動で朝鮮人部落から奪った朝鮮服を着る肉体派の女も、いきなりチームが編成され練習に明け暮れるフットボールチームのメムバーたちも、そして暴動が組織されるにあたって集落共同体の敵とみなされる朝鮮人経営者「スーパーマーケットの天皇」といったネーミングセンスもすごい。山の中からときおりあらわれる隠遁者ギ―の姿恰好が面白いし、養母ジンの怪物的な肥満によって変わり果てた姿と、その傍らにいる憂い顔の亭主、そして子供たち、ジンの周囲にはまるで玩具のように缶詰群がうずたかく積まれて、それらがまるで祭壇のようにジンの周囲を円形に守っているのもすごい。なにもかもが、まるで大友克洋の作品(四国の谷間を舞台にした六〇年代版「アキラ」のような)に描かれる風景のように、緻密かつぶっ飛んだ強烈さで、それが過去からの繰り返しのように、百年前から連綿とつづく時間の分厚い層の重量感で迫ってくる感じなのだ。

反復

大江健三郎万延元年のフットボール」の鷹四は、暴力衝動と自己処罰衝動とあいだを激しく揺れ動くようなやつで、こんな厄介な人間が煽動することで、一揆や暴動が具現化するものなのか、おそらくは人を惹きつける魅力も持ち合わせているような、暴力の悲劇の要因には、いつもこんな人間がいるのか…とも思うが、その一方で、鷹四は人間一般から抽出されたある傾向モデルとして形作られた登場人物のようにも思われる。

兄の蜜三郎は、鷹四の思惑や心魂の根底まで見通すことの出来る視点と洞察力をもっているというよりも、まず最初に、ある人間一人の内面描写の解像度が異様に上がって、それがやがて二人の登場人物に分かれた、という感じがする。蜜三郎と鷹四との対話は、二人の人物による対話というよりも、ほとんど一人の人間が自らの内側で二つに分かれて葛藤しつつ対話している状態に近い感じがする。自分が自分に問うと、自分が思いもよらぬ言葉を返してくる、あるいはまるで知らなかった、記憶になかった秘密の告白が、いきなりはじまる。それを強い驚きや嫌悪や拒否感をもって聞く。しかし実のところ、それは皆、既に知っていたことだと、どこかで気づいてもいる。それは対話でもあるが、自分自身を掘り下げていき、これまで見ようとしていなかった自分、おぞましくも不気味なもう一人の自分を、じょじょに発見する過程のようだとも感じた。

とはいえ、調子づいてイケイケな弟を疎ましく思いながらも自分のペースを何とか維持しようとする、弟にかぎらず、取り巻きやら谷間の住人やら奥さんやらとの関係において、気掛かりや不安や怒りや諦念に苛まれる理由が掃いて捨てるほどある、この兄の焦燥感とイラつきの感じがおそろしく細かく具体的に執拗に描かれていて、その苦しさの中にひたすら留まってモヤモヤを味わい続けるのが本作を読む体験のかなりの割合だとも言えて、その意味では一人の人物の内面のみで展開される自己対話という感じはまったくないのだが。

カリスマ、指導者、精神的支柱、総統…とは何か。それは他者ではなく、魅力とか美でもなく、まるで私の想像のなかにいるような誰かのことだろう。その誰かは私を夢中にさせ、私の思いを代替し、私のうつくしいと感じる対象そのもののように見えるが、それが目のまえにいる誰かのうつくしさではなくて、私がそう思いたいうつくしさを投射できる白い布のようなものだ。それが白い布であることも、そこに投射したイメージを見ているのが私自身であることも、私ははじめからわかっていて、あえてそうしている。今はその気持ちよさに淫していたい。そのような状態に自分を置くことではじめて可能な行為がある、ということもわかっている。

人々が共有する気分、共同体のなかで流通する気分が、じょじょに暴力的なものへと変貌していく。私がそれを許容し、その快を受け止め、誰もが同じように感じていることを感じるとき、快感は増幅する。それも、誰もがはじめから知っていたことだ。背中を押されたことはたしかだが、それだけで誰もが迷いなくここまで来た。一揆や略奪や暴動が現実のものになるとは、そういうことであろう。
今ここにあらわれようとする暴力は、過去の反復として再来するものだ。ここには歴史反復の予感が見られるのだが、鷹四の挫折の原因は、その反復を先取りして、自らの宿命のように短絡してしまったところにある。自らの祖先が招き寄せてきたこれまでの歴史的事件から符丁を読み、自分の立場や役割をあらかじめ規定された物語のように自ら設定してはめ込んでしまう。暴力衝動と自己処罰衝動に揺れ動く不安定な自分を、ある大きな役割に投げ入れ、はじめから待っていたかのようにそれに同化する。悲劇の頂点で全自己が消尽される悲劇的かつ英雄的なイメージと、基底にある罪の意識の解消に向かって邁進するも、その試みは挫折する。たしかに歴史は反復するのかもしれないが、それをあらかじめ先取りして行為の根拠にすることは出来ない。その思いが真摯であればあるほど「自分自身をそこまで欺瞞するほどの誠意をもって」…絶望しかない完全な失敗へと進むことになる。

閉店

いつもの店で髪を切った。そしてこの店は、今月で閉店する。ずっと担当してくれていた人もご実家に帰って家業を継ぐそうな。およそ二か月に一度の間隔でこの店に通いつづけて、たぶん二十年近くが経った。それが今日で最後とは、あまりにも唐突ではあるが、それを知らされて、最後の予約を入れて、本日さも当然のようにそのときが来たという感じだ。と言っても、ラストの特別感にあふれてるなんてことはまるでなくて、いつも通りの世間話しながらの小一時間を過ごしただけ。ドラマチックなファイナル気分というか、卒業式的、送別的な、もう二度と会えないねさようならみたいな、そういう感傷というものからはるかに遠く離れてしまって、今日がラストだとわかってはいても、それをことさら言い合うでもなく、お互いに、いつも通りにしか出来ないという感じである。それを口にし辛いとか湿っぽいのが恥ずかしいとかでもなくて、単にそんな話してもしょうがないし…という感じである。

それにしても、次回からどこで髪を切れば良いのか。まるで投げ出されたかのように、いきなり難民になってしまった。この年齢でひとりの男性が、あらたに通うべき美容理髪系を探すのって、意外に難易度高くないか。通う呑み屋を探すのよりも、よほど難しくないか。

テトラポッド

タモリ倶楽部」を見ていたら、ゲストに出ていた女性の年齢が46とあって、どう見てもそうは見えないと思っていたら、年齢ではなく何とか46というグループのメンバーだった。「タモリ倶楽部」今夜の特集は「消波ブロック」。

子供のころ、夏休みの親の実家に帰省すると、ほぼ毎日海へ泳ぎに行った。太平洋の荒い海に面しているので砂浜ではなく石の浜で、少し泳いだ先には数十メートルにわたって浜をガードするかのように積み上げられたテトラポッド群があった。それによじ登って、四つん這いになって、なるべく高くの腰かけられる場所を探した。

テトラポッド一つが、想像を絶するほどの巨大さで、しかも絶対に動かない、もし上からのしかかられたならば、ひとたまりもないであろう重量をもって、そこにあって海水の強大な力を受け止めている。子供がその上でどれだけじたばたしても、これは微動だにしないことはわかっていたのだが、それらの積み重なりには、たよりないほどところどころにたくさんの隙間が出来ていて、隙間の奥をのぞきこむと薄暗くなった先で、コンクリートの足で囲まれた狭い領域内に入り込んで翻弄されぶつかり合っている海水の音が、反響音を拡大しつつ耳に聴こえてくるのだ。あの暗くて狭い奥の隙間に、間違ってこのからだが入り込んでしまったら、たぶん大事故になるだろう、子供が海で遭難のニュースになるだろうと思った。そもそも海面から上に出ているこの安全地帯さえ、すでに人工物の要素が自然によってどんどん浸食されていた。あれの上にのぼることを、大人からやめろと注意はされなかったが、そこはすでにフナムシカメノテヒザラガイや小さなカニたちの世界で、そうそう長く留まれる場所ではなかった。

性性

セックスとは、男女間ならば女性のなかにある男性性と男性のなかにある男性性とでやる行為なのではないか。だとしたら、同様な考え方で、女性のなかにある女性性と男性のなかにある女性性とで、何が行われるのか、何かができるだろうか。

一枚の絵画、あるいは一篇の小説に、さまざまな出来事が描かれているとして、そこには男性性の部分と女性性と部分とが入り混じっていると考えることもできるだろうか。それは図と地という区別を、男性と女性に置き換えているということではないように思うのだが、たとえばセックスが双方同意の元に営まれて、双方が何かを得るというときの、何か目的へ向かう感じ。セックスとは、考えるためにすることではなくて、したいからするのだろう、したいというのは、今ここにとどまりたくないということでもあるから、何かしらの目的が仮設定されるだろう、そのような目的設定したいという思いを男性性とここでは言い換えている。

ならば女性性は、そのような目的を必要としないのか。考えるということをしたいためにセックスする人はいないかもしれないが、考えたいというのもまた、何かしらの目的へ向かって動きたいという欲求ではあるはずだ。女性性を自己満足とか現状肯定の意味で考えているわけではない。ただ女性性というものを、僕はおそらく何かへ寄り添うようなスタイルをとってそこに自己根拠を見出す在りよう、のように考えているフシはある。一枚の絵画、あるいは一篇の小説のなかで、ある目的へ奉仕する箇所を下から支えている見えない部分、ほとんど思い過ごしに近いような気配としてそこに作用している何らかの力、のようなものに。

寄り添うスタイルをとる私、それを見ているもうひとりの私が、それで良いと言う。そのような承認に充足する気分のことを、女性性とここでは言っているのだと思う。

これは男性=目的型、女性=奉仕型、ということを言いたいのではない。いや、ほとんどそう言ってる感じだが、要は誰でもおおむね目的型志向か奉仕型志向かのどちらかに傾向付けられるのではないかと、そんなふうには思っている。性別によって必ずその型でなければいけないとは言ってない。

20th

ふだん甘い食べ物にほぼ興味がないので、たとえばデパ地下のお菓子売り場が集まってるフロアをうろうろしていてもそんなに楽しくはなくて、どれでもいいんだけど…それでも様々なお店の色とりどりの商品に目移りして、それなりに迷ったあげくこれでいいやと決めて買い求めて、受け取った品物の紙包みと、贈答用袋に入ったグラッパのボトルを手にして駅構内を歩いていると、なんだかクリスマスの夜みたいな、あるいは子供のお土産を手にぶらさげて家に帰るお父さんのような気に一瞬なるというか、傍から見て自分が、そんなお父さんに見えたりすることもあるのだろうか。

それにしても、今日は結婚二〇周年である。まったく信じがたい話だ。今日で二〇カ月経ったというなら、まだ理解できるのだが…。

田村正和

田村正和をはじめて知ったのはドラマ「うちの子にかぎって…」で、放映年は1984年らしい。小学生が大人にこまっしゃくれたことを言うのが面白い…と、そのドラマを見ている当時中一の自分が思っていた。一応もっともらしい態度でことをおさめようとしてそうは行かず、やれやれ…となる、先生役の田村正和。あの後ろ髪の長さ、あんな髪型の中年男性を、今はもう見かけない。昭和のおじさんの感じがする。男性のカッコよさというのも、ほとんど文学というか、ある種の物語的なものだとも言えるか。