Amazon Primeでチャン・リュルの「福岡」を観る。

古本屋の男(ヨン・ジェムン)は、常連客の女(パク・ソダム)に誘われて福岡県を訪れ、そこで居酒屋を営んでいる先輩(クォン・ヘヒョ)と、二十八年ぶりに再会する。

古本屋ジェムンと先輩ヘヒョはかつて、一人の女性との三角関係だった。その女性は、ジェムンとヘヒョどちらのことも好きだったのだと言う。だから女性は、いわば公然と二股をかけ、男二人はそれを受け入れていた。

そしてあるとき彼女は二人の前から姿を消した。それ以来、二人は絶交状態だった。ジェムンは当時彼女がよく通っていた店だからとの理由で、古本屋の店主になったのだし、ヘヒョは彼女の出身が福岡であるからとの理由で、これまで福岡で居酒屋を営んできたのだ。

二十八年ぶりに再会した五十過ぎのおっさん二人は、気まずさやぎこちなさをこらえ、憤懣や文句を互いにぶつけ合い、それでも仕方なく元の関係をやり直すかのように日々を送りはじめる。決して仲良くはないけど、一緒に店で酒を飲んだり、ぶらぶらと街を散歩する。ソダムも楽し気な様子で、そんな二人に連れ添って歩く。

ソダムは、相手が日本人だろうが誰だろうが、ふつうに韓国語で話しかけ、相手は母国語で返答し、それで当然のように、互いに言葉が通じ合っている。

男二人を二十八年ぶりに再会させたのはソダムである。そのソダムに関してこの映画はいっさい説明がない。なぜソダムが韓国でジェムンの古本屋の常連だったのか、なぜ福岡を訪れるのか、まったく不明なままだ。ソダムはただ、ふわっと彼らに寄り添い、もう一人の仲間のように、あるいは後輩のように、楽し気に付きまとっているだけだ。

福岡で一番古いという古本屋を訪れると、若い女性店主(山本由貴)が出てきて、前店主だった老人は二年も前に亡くなったと言う。しかしヘヒョは、数日前にこの店で、老人とたしかに会って会話したはずなのにと訝しげな様子だ。

さらに店主(山本由貴)は、先日あなたから預かったものを返すと言って、ソダムに小さな人形を渡するのだが、受け取ったソダムには心当たりがない。そのとき店内に、日本の高校制服姿のソダムが、おそらく本人とは別の幽霊的な存在としてあらわれ、日本の童謡「お母さん」を小さい声で歌う。

(そういえばチャン・リュルは「群山」でも宿屋の娘に童謡「お母さん」を歌わせていた)

ソダムの「お母さん」にまつわる場面は、他にもある。居酒屋で問われてささっと二人に聞かせた自分の身の上話。ソダムの母親は、ソダムが幼少の頃に彼女の元から去り、ソダムは父親に育てられた。しかし父親とは以前からずっと不仲であると。

また後に、夜の寝言で「お母さん」を何度も呼んで、隣で眠っていたジェムンを驚かせる場面もあった。

これは仮定だけど、もしソダムに目的があって、それがソダムの「お母さん探し」であるなら、まずお母さんがかつて好きだった二人の男を再会させ、二人の話を聞き、さらに福岡で古本屋の店主に転生(?)した若かりし頃のお母さんと再会する…ということなのか。
男二人のかつての彼女は、ついに最初から最後まで不在のまま、お母さんはもはや、おっさん二人の知るかつての彼女とは別の姿ということになる。

ただ、ソダム自身にやや現実的存在感が希薄と見なすこともでき、彼女自身がある意味で幽霊的でもあり、むしろ、おっさん二人がもう一度だけ再会を果たすために、媒介者たる彼女を作り出している感じもする(ラストで、もともとの韓国の古本屋にじっとうずくまる二人…の幽霊?)。

もちろん古本屋の女店主が、かつての思い出とともに「わが娘」ソダムを、この時空に呼び出して、かつての恋人二人をも引き連れるように計ったという仮定もありうるか。つまりこの映画は、登場人物の誰もが、実在しない幽霊的存在の可能性を共有している。

ただ、こういうことを書いていても、この映画の面白さを一ミリも伝えることにならない。これは単に、三人ないし四人のヒマな人たちが、ひたすら福岡の街を歩いて、居酒屋で飲んで、そういう日々を送って、最初、季節は冬だったのが、いつしか桜が咲いて春になって、みんなの服装も変わる。しかしあい変わらず、同じような日々を過ごしてる、ただそれだけの映画だと思っていいのだと思う。ジェムンの顔や、神経質な感じのヘヒョの様子を見ているだけで面白く、そしてロングコートに大きなショールを首に巻いた姿で、タバコを吸ったり酒を飲んだりそのへんを歩き回ってるソダムはたいへん魅力的だ。

これを観たのは一昨日である。僕はチャン・リュルの「福岡三部作」(「柳川」「福岡」「群山」)のなかでは、この作品が一番好きだ。