大江健三郎「万延元年のフットボール」の魅力は、それがある意味、このうえなく陰惨で、救いようのない物語であるにもかかわらず、なぜか心を躍るような夾雑の要素が多くちりばめられているところにあると思う。僕がはじめて本作を読んだのは二十代のときで、当時は読了しても小説の全容を把握することなどほぼ出来ていなかったように思うが、何しろそのカオスな世界観に強く惹かれたのを、今でもよくおぼえている。まず雪の谷間を走るシトロエンがすばらしいし、真っ赤に充血した目をして呆然とウィスキーを飲み続ける奥さんがすごいし、アジア衣装に身を包んだ桃の姿も、終戦後の暴動で朝鮮人部落から奪った朝鮮服を着る肉体派の女も、いきなりチームが編成され練習に明け暮れるフットボールチームのメムバーたちも、そして暴動が組織されるにあたって集落共同体の敵とみなされる朝鮮人経営者「スーパーマーケットの天皇」といったネーミングセンスもすごい。山の中からときおりあらわれる隠遁者ギ―の姿恰好が面白いし、養母ジンの怪物的な肥満によって変わり果てた姿と、その傍らにいる憂い顔の亭主、そして子供たち、ジンの周囲にはまるで玩具のように缶詰群がうずたかく積まれて、それらがまるで祭壇のようにジンの周囲を円形に守っているのもすごい。なにもかもが、まるで大友克洋の作品(四国の谷間を舞台にした六〇年代版「アキラ」のような)に描かれる風景のように、緻密かつぶっ飛んだ強烈さで、それが過去からの繰り返しのように、百年前から連綿とつづく時間の分厚い層の重量感で迫ってくる感じなのだ。