性性

セックスとは、男女間ならば女性のなかにある男性性と男性のなかにある男性性とでやる行為なのではないか。だとしたら、同様な考え方で、女性のなかにある女性性と男性のなかにある女性性とで、何が行われるのか、何かができるだろうか。

一枚の絵画、あるいは一篇の小説に、さまざまな出来事が描かれているとして、そこには男性性の部分と女性性と部分とが入り混じっていると考えることもできるだろうか。それは図と地という区別を、男性と女性に置き換えているということではないように思うのだが、たとえばセックスが双方同意の元に営まれて、双方が何かを得るというときの、何か目的へ向かう感じ。セックスとは、考えるためにすることではなくて、したいからするのだろう、したいというのは、今ここにとどまりたくないということでもあるから、何かしらの目的が仮設定されるだろう、そのような目的設定したいという思いを男性性とここでは言い換えている。

ならば女性性は、そのような目的を必要としないのか。考えるということをしたいためにセックスする人はいないかもしれないが、考えたいというのもまた、何かしらの目的へ向かって動きたいという欲求ではあるはずだ。女性性を自己満足とか現状肯定の意味で考えているわけではない。ただ女性性というものを、僕はおそらく何かへ寄り添うようなスタイルをとってそこに自己根拠を見出す在りよう、のように考えているフシはある。一枚の絵画、あるいは一篇の小説のなかで、ある目的へ奉仕する箇所を下から支えている見えない部分、ほとんど思い過ごしに近いような気配としてそこに作用している何らかの力、のようなものに。

寄り添うスタイルをとる私、それを見ているもうひとりの私が、それで良いと言う。そのような承認に充足する気分のことを、女性性とここでは言っているのだと思う。

これは男性=目的型、女性=奉仕型、ということを言いたいのではない。いや、ほとんどそう言ってる感じだが、要は誰でもおおむね目的型志向か奉仕型志向かのどちらかに傾向付けられるのではないかと、そんなふうには思っている。性別によって必ずその型でなければいけないとは言ってない。