観たのは昨日だが、Amazon Primeでチャン・リュルの「フィルム時代の愛」(2015年)を観る。かなり困った映画だ。七十分くらいの映画だけど、四部に分かれている。

第一部
病院内を舞台に映画(映画内映画)が撮影されている。カットが掛かり、役者もスタッフも次の仕事へ取り掛かろうとするとき、照明係(パク・ヘイル)がとつぜん監督に異議を唱える。今のシーンには「愛」がない、「愛」を捉えられてないと猛抗議する。押し問答の末に、照明係はフィルムをいくつか抱えて現場を逃走する。近くのサッカースタジアムの歓声が響いてくる路上を、ひとり茫然としながら歩く。

第二部
病院内の廊下やロビー、複雑に管の入り組んだ地下施設やその廊下、誰もいない空き部屋など、無人の風景が次々と映し出される。フィルム撮影の、粒子の粗い、ざらついたノイズ含みの質感。とくに物語的な展開はなく、順々に風景がくり出されては次へ切り替わっていく。どの場面にも、人の気配はまったくないのだけど、椅子が勝手にくるくると回っていたり、音を立てる何らかの物質が配置されていたり、動きというか無人の空間に何らかの気配を示そうとする意図だけは感じられる。

第三部
第一部を踏襲するように、先ほどの病院内が捉えられ、しかしどの場面にも登場人物は皆無で、無人の病院内空間に、第一部でのセリフやり取りだけが聴こえる。まだ残る第一部の記憶に対して微妙なズレもはらみつつ、無人のまま先ほどの物語が展開する。反復によって物語そのものが相対化され、そこに時間の経過のような、経過したはずの時間が無理に重ね合わされたような感じを受ける。

第四部
照明係の男が第一部の終わりでやってきた海辺の埠頭にいる。そこで近くにいた老人に「愛を信じますか?」みたいなことを聞き、第一部の役者を真似て、その場で何か弦楽器らしいものを弾く身振りをする。すると楽器の音だけが聴こえてくる。

「愛が云々…」みたいな要素は果たして必要なのか…。つまり第二部と第三部みたいなことを、心ゆくまでやりたかっただけではないのか…という気もした。

一度聞いたセリフと音声が異なる場面で再現されると言えば、なんといってもデュラスの「インディア・ソング」と「ヴェネツィア時代の彼女の名前」が思い浮かぶのだが、本作はデュラス映画ほどの(映画に潰されそうになるみたいな…)心身負荷はないし、ある種の面白味は感じられたのは良かった。

ロケ地である病院の、西日に照らされながら、階ごとに折り返されたおそらく荷物搬入出用の長いスロープは、なんとなく狂気を感じさせるヤバい風景という気がした。でかでかと五輪マークが掲げられてた巨大なサッカースタジアムと、そこから聴こえてくるバンド演奏のドラムみたいな鳴り物の音と地響きのような歓声は、逆にその周囲に大きな静寂の存在を感じさせるように思った。