山拓央のNote(https://note.com/aoymtko/n/n0a0018098591)「死者の時間と他者の時間」を読み、ある小説を読み終えて感無量…みたいな気持になる。結末にたどりつくまでの流れが、うつくしいのだと思う。

同時に、死がいつか無へ移行することの厳粛をも思う。死ですらまだ人間の側にあり、無の手前で「まだ生きている」とまで言ったら言い過ぎだろうけど、たとえば自分が、妻よりも長く生きるというのは、それだけ妻を無へ、出来るだけ近づけないということでもあるだろう。

たとえば幽霊という題材は、死から無への移行間で生じるトラブルとその対処をめぐるフィクションとも言えるのかもしれない。

それにしても、生とは今この時間のことだが、端的にこれはなぜ、肉体の痛みを感じ取るためだけに与えらえた時間ではないのか?などとカフカ風に問いたくもなる。

荒木経惟が撮影した上野駅前の写真。不忍口を出てすぐの上野松竹デパートだが、見ると思わず目をむくというか、ぎょっとさせられる。かの有名な東京の上野駅前であるとは信じがたい景観であり、しかし同時に、あ、なつかしい、昔はたしかにこうだったわ、という思いも同時に浮かび上がってくる。

あのあたりに成人映画の看板がひしめいていたのは、僕の記憶が確かならば、僕が大学生の90年代初頭あたりまではこんな感じだったように思うのだが…。その後いつの間にか、ポルノではなく一般映画の看板が並ぶようになった。しかし街頭に掲げられたポルノ映画のポスターや看板というもの自体、あの頃はどの街でも見かけたもので、当時は珍しくもなんともなかった。それだけ成人映画館も多くて、知らない街をはじめて訪れると、たいてい駅周辺のどこかにはあった気がする。

それにしてもこのような景色を実際に通り過ぎつつ、自分がそういう時代を生きてきたという事実にいまさら驚かされる。まさか、こんなだっけ、こんな非常識な景色を横目にかつては歩いていたのだっけ、と思って、自分が何時代の人間かを一瞬見失いそうになる。

https://imaonline.jp/imapedia/nobuyoshi-araki/

U-NEXTで、ジャック・ドワイヨン「少年とピストル」(1990年)を観る。きびきびとした話の運び方が素晴らしい。説明なしに、出来事だけでぐいぐいと進んでいく。主人公の不良少年がいて、ふだんから少年を気にかけている…というか素行を監視してる刑事がいる。刑事はおそらくいつものように、少年に話しかける。なぜ昼間からこんな場所をうろついてるのか、学校へ行かないのか、少年は適当な嘘でごまかす。じつは店舗に押し入り拳銃で脅して500フランを奪ったばかりだ。この金をもってはじめて存在を知った姉に会いに行こうとしている。ここで刑事に捕まるわけにはいかないから、再び銃を取り出して車中の刑事を脅す。目的を告げ、姉のところまで運転を命じる。刑事はやむなくそれに従う。こうして二人の移動がはじまる。移動は途中から、姉も加わった三人体制となる。

これは、いったいどうなってしまうのか…という思いに駆られて、画面を見続けるだけみたいなことになる。少年の思いとか、浅はかさとか、理不尽さとか、刑事の詰めの甘さとか、お人よしで優しいところとか、組織人としての凡庸さとか、いやでも保護者的な立場を担ってしまう感じとか、姉の激情型な性格とか、思い込みの激しさとか、相手の弱みややさしさにつけこもうとする目敏さとか、やけに理知的というか言葉で物事や他人の考えを的確に示す論理的なところとか、でもどこか純朴にも見えるところとか、そういった各要素が複雑に絡み合って、この虚構であるはずのやり取りを、冷静な距離を置いた視点で見ることができなくなり、観る者であると同時に、場の当事者の一人として状況へ関わるしかなくなっていく。

たとえば「北野映画」において、拳銃が相手に突き付けられている以上、相手は身動きも抵抗もできないし、ほとんど死んだも同然だ(その弾が本人に当たらず他の誰かを絶命させることもあるが、それはそれだ)。

しかし本作で少年、あるいは少年の姉は、必ずしも始終刑事に拳銃を突き付けているわけではない。拳銃は中盤から車のバックシートの奥に、ほとんど忘れ去られたかのように放り出されたままだったりもする。かと思うとこの刑事もどこまでも迂闊な人なので、ひょいと所持拳銃を姉に奪われてしまったりもする。

この映画の世界では、拳銃の効果や銃に可能になるはずの制約力が驚くほど弱くて、たぶんそういう強迫的なものではない理由で物事は進んでいく。突き付けられた拳銃というところから始まったはずの物事を進めていく要因が、一見目立たぬように、しかし目まぐるしく変換されていき、二者あるいは三者の約束が、果たされたり破られたりして、それによって関係そのものがうごめくような変容を見せる。だからこそ非常にもやもやするし、ときには何かもっと良い成り行きもあるはずでは?とイライラしたりもする。しかし、こうでしかなかった、それ以外はありえなかったのだという納得もある。この忸怩たる感じは、どこまでも決定論的な「北野映画」にはありえないものだ。途中、姉はあろうことか二人を待たせ一人海水浴するのだが、この水浴も「北野映画」には、ありそうなようで、ありえないものだと思う(どちらの方が良いとか悪いとかの話ではなく)。

DVDで北野武ソナチネ」(1993年)を観る。じつは(ちゃんと通しては)、はじめて観た…。

北野武がよくわかっているのは、撮りたい映画の題材として、自分自身がもっともそれに適ったイメージであるということだ。自分がうつむいたままで何らかのセリフを呟くだけで、ある強力なリアルさ、誰もが知るはずなのに誰も見たことのない映画的な瞬間が生み出される、その予感を本人がたしかにつかんでいて、それをすべての賭け金として事を起こそうとしている。

しかしその都度の工夫や考慮は必要なはずで、そもそもうつむいたままの人物、この映画の主人公が何をモチベーションに支えられて、このような存在を示しているのか。この人物をさらにある強いリアルさへ向けて運ぶには、どんなことができるのか、そこに必至の考察や検討や思い切った判断が幾重も重ねられているはずで、その結果生み出されたのが、あのロシアン・ルーレットであり、神相撲であり、フリスビーであり、花火の撃ち合いである。それだけでなく、とにかく沖縄の場面はほぼすべてが素晴らしくて、雨にせよ晴れにせよ、昼にせよ夜にせよ、海辺にせよ瓦屋根の家の薄暗い屋内にせよ、アロハシャツにせよ、落とし穴にせよ、すべてが完璧な北野武の「仕掛け」に見えてくる。

そして、その仕掛けには目的がない。それをした理由を言い訳する余地は綺麗に拭い取られている。それはもはや、笑うためですらない。もちろん暇つぶしのためでもない。何のためでもないということの不気味さ、得体の知れなさをもって、おそらく北野武は、この仕掛けの結果を見やりつつ、流れる時間を感じつつ、暴力=死に対して全身を賭けて拮抗しようとしている。彼は彼の敵が死であることを、そのようにして見据え、主題化していると言って良いだろう。

冒頭、北野武を助手席に乗せて車を運転する寺島進の表情は、もともと眼光鋭く冷徹な調子だった。彼はヤクザの組員として、組長の傍らに仕える役割をしっかり果たそうとしていた。その意思を表情にみなぎらせていた。寺島進には役割が与えられていて、彼は役割に対して奉仕しつつ、その任務に彼は支えられていた。組織が、組長が、彼を必要としているからこそ、そのようにして彼は自分を律することができていた。

しかし「なんか、ヤクザ嫌になっちゃったな」と、冗談ぽく北野武から言われたときに、おそらく寺島進のなかに、何か揺らいだものがあった、かもしれない。自分を内側から支えている杖を、指で遠慮なく突かれているような不快さをかすかに感じたのではないかと思う。

だから舞台が沖縄に移ってからの寺島進の表情の微妙な変化は、彼にとって幸福とも不幸とも解釈できるだろう。沖縄で日々を遊ぶ彼にはもはや、自分を律する掟もないし、厳粛な父的存在の影も消え入りそうでしかない、ただ漫然とした、放り出されたままの、けじめのない時間だけがある。本作を観る者は、彼の表情がじょじょに和み、弛緩していくのを(勝村政信の緩い存在感が、素晴らしい効果を上げているのもあり)、ある安堵感、幸福へ向かう回復の兆しのようにも見る。が、同じだけの不吉さ、不安さもそこに見る。それが死への留保なき接近であることは、ほぼ間違いないようにも思える。

組織そして各員の身のためにも、これから何をすれば良いのか、組長は何を考えているのか、その実務的な側面をいちばん気にかけているのは大杉漣だろうし、だから彼が沖縄で着用しているアロハシャツが何となく似合ってないのは、可笑しさと不思議な物悲しさを醸し出しているように思うし、見失われそうな本来の目的とか、役割とか、自分を律するはずの何かを求めて、ときには苛立ちを隠さないし、とにかく彼のなかではまだ、かろうじて信じるに足るものは消え去ってない、まだ組織としてやるべきことはあると信じているだろう。

しかし、寺島進はある日突然死ぬ。その時が来たら、大杉漣もあっという間に死ぬ。打ち上げ花火に時折実弾が交わったとしても誰も死なないのに、銃撃となればあっけなく皆が死ぬ。あたかも事前に定まったことのように、死はきちんとやって来る。ただし北野武だけを避けるようにだ。

最後に北野武が自殺するその理由は、彼が最後まで死ななかったから、というだけのことに思う。彼をもっとも戸惑わせ、死へ向かわせたのはおそらくそこで、これだけのことがあってもなぜ自分に銃弾が当たらなかったのか、なぜ依然として自分だけ生きているのか、という点にこそあると思われる、というか、そう思いたい。

その男、凶暴につき」もそうだが、死をあまりにも超越的な到達地点としてとらえすぎていることで、すべてがアイロニカルに解釈されてしまう、わかりやすい意味を安易に探られてしまうような弱点を、この映画は抱えているようにも思う。それをとくにラストシーンで強く感じてしまう。また国舞亜矢が演じる女性の類型的なところにも物足りなさはある(あと、よく言われるように音楽のダサさも…)けど、映画の部分部分においては、とくにあの沖縄は掛け値なしに素晴らしい。

DVDで北野武その男、凶暴につき」(1989年)を観る。じつは、はじめて観たのだが、これが監督第一作目で、もうすでに「北野映画」は完成の域にまで達していたのだな…。

ビートたけし演じる主人公の刑事は寡黙で、挨拶されても相手の顔もろくに見ない。シャイで、アウトロー気味だが、任務へのこだわりをもつ、一本筋の通った、おそらくけっして悪い人ではない、世話になってる人に対しては義理堅い、しかし官僚的な上司に迎合する気は一切ない、組織の論理にも政治にも関わる気はない、たぶんそんなおっさんである。

自分の役割みたいなことにも無頓着で、部下への指示に一貫性があるとも思えない。きちんと上司らしい振る舞いをしようという気もなさそうだ。「お前も行けよ、手伝ってやれよー」とか「何やってるんだよ、お前がやるんだよ」とか、その場その場で、適当に思いつきを口にしてるだけな感じだ。その場にいた者に金を借りて、困惑気味な相手の顔にも気にする様子はない。

映画の中に、そんな人物が登場したことは、これまでも無くはなかっただろう。にもかかわらず、本作からはじまったたけし演じる人物の、画期的な新しさとは何だろうか。

刃物を持って裸足で戸外を逃げ回る男を、たけしと部下の男が車で追いかける場面。部下は一方通行の逆走に躊躇するが、たけしはそれに文句を云う。行けよ、一通なんていいんだよ、早く行けよと言って、堂々巡りな云い合いになり、すると向うの橋をその男が逃げていくのが見えて、部下があそこにいますと言い、たけしが、ばかやろう、だったら早く追えよと言う。

行き当たりばったりで、意志や考えというものがない。逃げる容疑者を車で追い詰め、このまま前進したら車で轢いてしまうところまで追いつめる。というか、轢いてしまう。轢いてしまっても終わってない。その身も蓋も無さ。この緊張と弛緩、不安と笑いが同時に生じているような場面こそ、北野武による発明という感じがする。

「自分に出来ること」から、自分自身の可能性を元に、すべてを組み立てているのかなとも思った。一々細かい演出だのセリフだのが事前に考えられているわけでもないだろうし、脚本とかによって作品の出来が左右される類のものでもなくて、まず何かがあらかじめ大きく先取りされていて、自分がそのような人物を演じられる、その演技を通して、ある大きな世界を構築できてしまえる、それが可能であるとの強い手応え、出来上がりイメージに対する確固たる確信があって、はじめてこの映画に目鼻が付いたのだろうし、これ以降の作品もその確信を下地においての実践だったのだろうと思う。

正月に実家の自室にあった98年から99年くらいのミュージックマガジンの何冊かを適当に持ち帰ってきたので、それをたまにぱらぱらとめくって読んだりもするのだけど、どのページもよくおぼえてるなあ、当時はなんと真面目に読んでたのだろうかと、我ながら呆れる思いだ。というか、真面目に読んでたわけではないけど、一度読んだらおぼえてしまうところが、若いということだ。でも二十年以上経って、いま懐かしいかと言えば、ぜんぜん懐かしくない。むしろ途中のまま放置されていたのを思い出したという感じに近い。途中なら今から続きをはじめようかという話ではないのだけど、でも途中だなという感じはする。いやだなあ、こういう途中のままが、無数に残り続けるのだよなあ、本だのモノだのを、捨てれば解決という話でもないなあと思う。

無着成恭 編「山びこ学校」の最初の方にある、本書中おそらくもっと名高い江口江一の文章「母の死とその後」は、これはたしかにすごくて、それは書かれている内容がというよりも、それをこのように文章としてあらわしたことが、彼にとっての形式の獲得であり、それによって書いた自分に輪郭をあたえ、より自分を活かす手段を獲得したということを、示しているからだろうと思う。

江口は今後の自分について"考えていること”を、6つの箇条書きにして学校に提出した。それは要するに、世の中に出て困らないように勉強したい、そのために仕事をぐんぐん進めて借金を取り返す、少し余裕が出たら、また借金してでも今度は田を買う、田さえあれば食うに困らない。そして金をためて、不自由なしの生活にしたい。他人の世話にならず、生活できる人間になりたいという趣旨である。

しかし、そのあとで「これは考えれば考えるほどまちがっているような気がしてならなくなるのです」と書く。

「第一は、ほんとに金がたまるのかというギモンです。第二は、僕が田を買うと、また別な人が僕みたいに貧乏になるのじゃないかというギモンです。
 第二の方を考えないとしても、第一の方だけでわからなくなってしまいます。こんなとき、僕のお母さんがもし家計簿をつけていたらなあと思います。」

亡くなった母は、あれほど身を粉にして働いても貧乏から逃れることはできなかった。だから彼は自分なりに、母亡きあと自分の家において想定できる収入と支出、また配給や扶助料や借金も加味して細かく具体的に書き起こしていき、今の条件下で暮らし働く以上、どう考えても絶対に収入が支出を上回ることはなく、生活はますます厳しいものになるだろうとの予測を理詰めで書き起こしていく。

「だから『金をためて不自由なしの暮らしにする』などということは、はっきりまちがっていることがわかるのです。」

まあ「そんなこと、当たり前でしょう」と言いたくなるようなことが書いてあるだけ、とも言える。それなのに、なぜか圧倒され言葉を失わせるものがここにはある。この数字の足し引きの連続、入ってくるお金と出ていくお金の勘定の羅列には、異様な凄みがあると言わざるを得ない。

人がふだん、いつかどこかの何者かから先天的に与えられていて、それを自分の考えと思い込んで、人生の目標とか幸福とか計画とかを自分なりの考えと思い込んでる、いや自分はそうではないと断言できるのか、その自信に翳りが差すような気がする。

現状を理詰めに考えて、考えるだけではなく書き残して、リアリズムに徹して、それを周囲に展開可能にするのが「生活綴方」だということか。だとすればこれは、確かに力になりうる。武器にもなりうる。自分を救うための施策になりうる技と言える。こういうことをおぼえて、貧乏や自分の境遇から自分を救い出す術を自分で養えということだったのか。