DVDで北野武ソナチネ」(1993年)を観る。じつは(ちゃんと通しては)、はじめて観た…。

北野武がよくわかっているのは、撮りたい映画の題材として、自分自身がもっともそれに適ったイメージであるということだ。自分がうつむいたままで何らかのセリフを呟くだけで、ある強力なリアルさ、誰もが知るはずなのに誰も見たことのない映画的な瞬間が生み出される、その予感を本人がたしかにつかんでいて、それをすべての賭け金として事を起こそうとしている。

しかしその都度の工夫や考慮は必要なはずで、そもそもうつむいたままの人物、この映画の主人公が何をモチベーションに支えられて、このような存在を示しているのか。この人物をさらにある強いリアルさへ向けて運ぶには、どんなことができるのか、そこに必至の考察や検討や思い切った判断が幾重も重ねられているはずで、その結果生み出されたのが、あのロシアン・ルーレットであり、神相撲であり、フリスビーであり、花火の撃ち合いである。それだけでなく、とにかく沖縄の場面はほぼすべてが素晴らしくて、雨にせよ晴れにせよ、昼にせよ夜にせよ、海辺にせよ瓦屋根の家の薄暗い屋内にせよ、アロハシャツにせよ、落とし穴にせよ、すべてが完璧な北野武の「仕掛け」に見えてくる。

そして、その仕掛けには目的がない。それをした理由を言い訳する余地は綺麗に拭い取られている。それはもはや、笑うためですらない。もちろん暇つぶしのためでもない。何のためでもないということの不気味さ、得体の知れなさをもって、おそらく北野武は、この仕掛けの結果を見やりつつ、流れる時間を感じつつ、暴力=死に対して全身を賭けて拮抗しようとしている。彼は彼の敵が死であることを、そのようにして見据え、主題化していると言って良いだろう。

冒頭、北野武を助手席に乗せて車を運転する寺島進の表情は、もともと眼光鋭く冷徹な調子だった。彼はヤクザの組員として、組長の傍らに仕える役割をしっかり果たそうとしていた。その意思を表情にみなぎらせていた。寺島進には役割が与えられていて、彼は役割に対して奉仕しつつ、その任務に彼は支えられていた。組織が、組長が、彼を必要としているからこそ、そのようにして彼は自分を律することができていた。

しかし「なんか、ヤクザ嫌になっちゃったな」と、冗談ぽく北野武から言われたときに、おそらく寺島進のなかに、何か揺らいだものがあった、かもしれない。自分を内側から支えている杖を、指で遠慮なく突かれているような不快さをかすかに感じたのではないかと思う。

だから舞台が沖縄に移ってからの寺島進の表情の微妙な変化は、彼にとって幸福とも不幸とも解釈できるだろう。沖縄で日々を遊ぶ彼にはもはや、自分を律する掟もないし、厳粛な父的存在の影も消え入りそうでしかない、ただ漫然とした、放り出されたままの、けじめのない時間だけがある。本作を観る者は、彼の表情がじょじょに和み、弛緩していくのを(勝村政信の緩い存在感が、素晴らしい効果を上げているのもあり)、ある安堵感、幸福へ向かう回復の兆しのようにも見る。が、同じだけの不吉さ、不安さもそこに見る。それが死への留保なき接近であることは、ほぼ間違いないようにも思える。

組織そして各員の身のためにも、これから何をすれば良いのか、組長は何を考えているのか、その実務的な側面をいちばん気にかけているのは大杉漣だろうし、だから彼が沖縄で着用しているアロハシャツが何となく似合ってないのは、可笑しさと不思議な物悲しさを醸し出しているように思うし、見失われそうな本来の目的とか、役割とか、自分を律するはずの何かを求めて、ときには苛立ちを隠さないし、とにかく彼のなかではまだ、かろうじて信じるに足るものは消え去ってない、まだ組織としてやるべきことはあると信じているだろう。

しかし、寺島進はある日突然死ぬ。その時が来たら、大杉漣もあっという間に死ぬ。打ち上げ花火に時折実弾が交わったとしても誰も死なないのに、銃撃となればあっけなく皆が死ぬ。あたかも事前に定まったことのように、死はきちんとやって来る。ただし北野武だけを避けるようにだ。

最後に北野武が自殺するその理由は、彼が最後まで死ななかったから、というだけのことに思う。彼をもっとも戸惑わせ、死へ向かわせたのはおそらくそこで、これだけのことがあってもなぜ自分に銃弾が当たらなかったのか、なぜ依然として自分だけ生きているのか、という点にこそあると思われる、というか、そう思いたい。

その男、凶暴につき」もそうだが、死をあまりにも超越的な到達地点としてとらえすぎていることで、すべてがアイロニカルに解釈されてしまう、わかりやすい意味を安易に探られてしまうような弱点を、この映画は抱えているようにも思う。それをとくにラストシーンで強く感じてしまう。また国舞亜矢が演じる女性の類型的なところにも物足りなさはある(あと、よく言われるように音楽のダサさも…)けど、映画の部分部分においては、とくにあの沖縄は掛け値なしに素晴らしい。