U-NEXTで、ジャック・ドワイヨン「少年とピストル」(1990年)を観る。きびきびとした話の運び方が素晴らしい。説明なしに、出来事だけでぐいぐいと進んでいく。主人公の不良少年がいて、ふだんから少年を気にかけている…というか素行を監視してる刑事がいる。刑事はおそらくいつものように、少年に話しかける。なぜ昼間からこんな場所をうろついてるのか、学校へ行かないのか、少年は適当な嘘でごまかす。じつは店舗に押し入り拳銃で脅して500フランを奪ったばかりだ。この金をもってはじめて存在を知った姉に会いに行こうとしている。ここで刑事に捕まるわけにはいかないから、再び銃を取り出して車中の刑事を脅す。目的を告げ、姉のところまで運転を命じる。刑事はやむなくそれに従う。こうして二人の移動がはじまる。移動は途中から、姉も加わった三人体制となる。

これは、いったいどうなってしまうのか…という思いに駆られて、画面を見続けるだけみたいなことになる。少年の思いとか、浅はかさとか、理不尽さとか、刑事の詰めの甘さとか、お人よしで優しいところとか、組織人としての凡庸さとか、いやでも保護者的な立場を担ってしまう感じとか、姉の激情型な性格とか、思い込みの激しさとか、相手の弱みややさしさにつけこもうとする目敏さとか、やけに理知的というか言葉で物事や他人の考えを的確に示す論理的なところとか、でもどこか純朴にも見えるところとか、そういった各要素が複雑に絡み合って、この虚構であるはずのやり取りを、冷静な距離を置いた視点で見ることができなくなり、観る者であると同時に、場の当事者の一人として状況へ関わるしかなくなっていく。

たとえば「北野映画」において、拳銃が相手に突き付けられている以上、相手は身動きも抵抗もできないし、ほとんど死んだも同然だ(その弾が本人に当たらず他の誰かを絶命させることもあるが、それはそれだ)。

しかし本作で少年、あるいは少年の姉は、必ずしも始終刑事に拳銃を突き付けているわけではない。拳銃は中盤から車のバックシートの奥に、ほとんど忘れ去られたかのように放り出されたままだったりもする。かと思うとこの刑事もどこまでも迂闊な人なので、ひょいと所持拳銃を姉に奪われてしまったりもする。

この映画の世界では、拳銃の効果や銃に可能になるはずの制約力が驚くほど弱くて、たぶんそういう強迫的なものではない理由で物事は進んでいく。突き付けられた拳銃というところから始まったはずの物事を進めていく要因が、一見目立たぬように、しかし目まぐるしく変換されていき、二者あるいは三者の約束が、果たされたり破られたりして、それによって関係そのものがうごめくような変容を見せる。だからこそ非常にもやもやするし、ときには何かもっと良い成り行きもあるはずでは?とイライラしたりもする。しかし、こうでしかなかった、それ以外はありえなかったのだという納得もある。この忸怩たる感じは、どこまでも決定論的な「北野映画」にはありえないものだ。途中、姉はあろうことか二人を待たせ一人海水浴するのだが、この水浴も「北野映画」には、ありそうなようで、ありえないものだと思う(どちらの方が良いとか悪いとかの話ではなく)。