無着成恭 編「山びこ学校」の最初の方にある、本書中おそらくもっと名高い江口江一の文章「母の死とその後」は、これはたしかにすごくて、それは書かれている内容がというよりも、それをこのように文章としてあらわしたことが、彼にとっての形式の獲得であり、それによって書いた自分に輪郭をあたえ、より自分を活かす手段を獲得したということを、示しているからだろうと思う。

江口は今後の自分について"考えていること”を、6つの箇条書きにして学校に提出した。それは要するに、世の中に出て困らないように勉強したい、そのために仕事をぐんぐん進めて借金を取り返す、少し余裕が出たら、また借金してでも今度は田を買う、田さえあれば食うに困らない。そして金をためて、不自由なしの生活にしたい。他人の世話にならず、生活できる人間になりたいという趣旨である。

しかし、そのあとで「これは考えれば考えるほどまちがっているような気がしてならなくなるのです」と書く。

「第一は、ほんとに金がたまるのかというギモンです。第二は、僕が田を買うと、また別な人が僕みたいに貧乏になるのじゃないかというギモンです。
 第二の方を考えないとしても、第一の方だけでわからなくなってしまいます。こんなとき、僕のお母さんがもし家計簿をつけていたらなあと思います。」

亡くなった母は、あれほど身を粉にして働いても貧乏から逃れることはできなかった。だから彼は自分なりに、母亡きあと自分の家において想定できる収入と支出、また配給や扶助料や借金も加味して細かく具体的に書き起こしていき、今の条件下で暮らし働く以上、どう考えても絶対に収入が支出を上回ることはなく、生活はますます厳しいものになるだろうとの予測を理詰めで書き起こしていく。

「だから『金をためて不自由なしの暮らしにする』などということは、はっきりまちがっていることがわかるのです。」

まあ「そんなこと、当たり前でしょう」と言いたくなるようなことが書いてあるだけ、とも言える。それなのに、なぜか圧倒され言葉を失わせるものがここにはある。この数字の足し引きの連続、入ってくるお金と出ていくお金の勘定の羅列には、異様な凄みがあると言わざるを得ない。

人がふだん、いつかどこかの何者かから先天的に与えられていて、それを自分の考えと思い込んで、人生の目標とか幸福とか計画とかを自分なりの考えと思い込んでる、いや自分はそうではないと断言できるのか、その自信に翳りが差すような気がする。

現状を理詰めに考えて、考えるだけではなく書き残して、リアリズムに徹して、それを周囲に展開可能にするのが「生活綴方」だということか。だとすればこれは、確かに力になりうる。武器にもなりうる。自分を救うための施策になりうる技と言える。こういうことをおぼえて、貧乏や自分の境遇から自分を救い出す術を自分で養えということだったのか。