DVDで北野武その男、凶暴につき」(1989年)を観る。じつは、はじめて観たのだが、これが監督第一作目で、もうすでに「北野映画」は完成の域にまで達していたのだな…。

ビートたけし演じる主人公の刑事は寡黙で、挨拶されても相手の顔もろくに見ない。シャイで、アウトロー気味だが、任務へのこだわりをもつ、一本筋の通った、おそらくけっして悪い人ではない、世話になってる人に対しては義理堅い、しかし官僚的な上司に迎合する気は一切ない、組織の論理にも政治にも関わる気はない、たぶんそんなおっさんである。

自分の役割みたいなことにも無頓着で、部下への指示に一貫性があるとも思えない。きちんと上司らしい振る舞いをしようという気もなさそうだ。「お前も行けよ、手伝ってやれよー」とか「何やってるんだよ、お前がやるんだよ」とか、その場その場で、適当に思いつきを口にしてるだけな感じだ。その場にいた者に金を借りて、困惑気味な相手の顔にも気にする様子はない。

映画の中に、そんな人物が登場したことは、これまでも無くはなかっただろう。にもかかわらず、本作からはじまったたけし演じる人物の、画期的な新しさとは何だろうか。

刃物を持って裸足で戸外を逃げ回る男を、たけしと部下の男が車で追いかける場面。部下は一方通行の逆走に躊躇するが、たけしはそれに文句を云う。行けよ、一通なんていいんだよ、早く行けよと言って、堂々巡りな云い合いになり、すると向うの橋をその男が逃げていくのが見えて、部下があそこにいますと言い、たけしが、ばかやろう、だったら早く追えよと言う。

行き当たりばったりで、意志や考えというものがない。逃げる容疑者を車で追い詰め、このまま前進したら車で轢いてしまうところまで追いつめる。というか、轢いてしまう。轢いてしまっても終わってない。その身も蓋も無さ。この緊張と弛緩、不安と笑いが同時に生じているような場面こそ、北野武による発明という感じがする。

「自分に出来ること」から、自分自身の可能性を元に、すべてを組み立てているのかなとも思った。一々細かい演出だのセリフだのが事前に考えられているわけでもないだろうし、脚本とかによって作品の出来が左右される類のものでもなくて、まず何かがあらかじめ大きく先取りされていて、自分がそのような人物を演じられる、その演技を通して、ある大きな世界を構築できてしまえる、それが可能であるとの強い手応え、出来上がりイメージに対する確固たる確信があって、はじめてこの映画に目鼻が付いたのだろうし、これ以降の作品もその確信を下地においての実践だったのだろうと思う。