Walking In The Genre


まだインターネット通販が存在しなかった頃のような昔の話だが、レコードとかCDとかの録音物いうのは、ちょっとレアなヤツとか、マニアックなものになると、その存在を知ったとしてもなかなかすぐには入手できなかった。まず地元(田舎)のレコード屋に行ってみて、無い。あるいは、無いに決まってるから最初から行かない。で、次に電車で少し移動した先の駅前のレコード屋に行く。でもここにも無い。あるいは、そもそも既に廃盤だったりするから、普通の店には無い。で、最後は新宿のユニオンだとか高田馬場あたりの中古屋で「ニワトリの群れ」に混じって、床にしゃがんで片っ端からレコードとかCDの入ったエサ箱に首を突っ込んで、目当てのブツを探す。でも、そこにも無い。(でも余計なものを見つけてしまって、そっちを買ったり、色々付加情報をゲットしたりもする。んで、疲れる。夕方になる。ビールを飲む。幸せ)


まあ多かれ少なかれ、そういう感じではあるのだが、しかしどうしても探し出せず、聴く事が出来てないアルバムタイトルというのは、これは驚くべき事に、数年たった後でも鮮明に憶えているし、もう全てを忘れるくらい月日が流れた頃に、相変わらず夥しい量で店の壁を埋め尽くすCDの背面を漫然と眺めているだけなのに、その一角に目立たずひっそりと存在している当該品を、ほぼ確実に見つける事ができるのだ。というか、向こうが光って、こちらに所在を教えてくれるのだ。そう…。それは言いすぎだがそれに近い感触は、あるかもしれない。


聴いたもの、未だ聴けてないもの、派生で聴いておくべきもの、賭けで聴いてみたいもの、等など…そういったアイテムの関係の網の目を、なるべく整然とアタマに叩き込んで、今自分が「何」を獲得しようとしているのかを再確認しつつ、レコード屋を徘徊する。で、いざ獲物を発見した際に、胸の鼓動が激しくなるのを抑えつつ、今、自分が何を為すべきか?如何に適切な行動が取れるか?に神経を集中させる(って買うだけですが)。…全然、金なんて無いのに、手持ちの有り金すべてレコード屋に寄付する勢いで、獲得物で膨らんで重くなり持ちづらくなった鞄を下げ、なおもうろつく。


まあ、ジャズならジャズだし、フリーならフリーだし、西海岸サイケなら西海岸サイケってことで、最初、そのジャンル全体を、とりあえずひたすら信頼に足るものと仮定するのだ。それは宝の山であると思い込む。それで、各々のクオリティも何も問わずに片っ端から聴いていって、なんとなくの全体感をぼんやりと少しずつ把握する。んで、しばらくすると、ああなんだこんなもんかと思って、だんだん熱が冷めていって、第一ピリオドが終了、となる。そうすると買うべきもの体験すべきものが織り成していた、すごく複雑な網の目を解析する力のようなものが、すっと弱まっていくのを感じる。それが、そのジャンルにとりあえずコミットする権限を失効した瞬間だ。


まあ、でもまた数年後に、そのジャンルへのネゴシエート欲求が再発する場合もある。いわばマイ・ブームじゃなくてマイ・リバイバル。僕はマイブーよりマイリバの方が楽しくて好みだ。で、本当の楽しさや驚きもここから始まる事が多し。(このとき最も自由度高く、文脈から浮上した「単品」の魅力を享受可能になる)


僕にとって「ジャンル」とは、あえて、だまされた気になってノってみて、熱狂して楽しませてもらうための、とりあえずの外枠なんだろうなあと思う。その中で遊んで、少しずつ飽きてきたり、それら全体を大雑把に体験したなと思って、それでそろそろ帰るか。と判断するときの基準のようなものかもしれない。


(…しかし、インターネットはこういうノリを完全に無き物にしてしまった感もある。こうなってしまうと、もはや、ひとつのジャンルを体系付けて知るなんていう事自体に、モティベーションを持つ事が不可能なんじゃなかろうか?だってわざわざ時間とお金と労力使わなくてもみんな調べられるんだから。ジャンルとはすなわちサーチエンジンの検索句でしかないから。しかでもまあ、すごく時間短縮になるというのはある。斯く云う僕も、今やものすごく、その恩恵に浴しているではないか。というか「あるジャンル全体」という幻想がもたらしてくれるあの感覚が、もはや無効になったと考えるべきなのだろう。でもその替わりにスピードを得られたのだと。)