変化


上野の森美術館で、東山魁夷記念日経日本画大賞を受賞した浅見貴子さんのトークを聞く。主に制作プロセスの話を中心に。どのような技法で、どのような工程を経てその作品が作られるのか、少なくとも自分はある程度理解しているつもりでいたが、話を聞いているとなるほど自分もわかってないことや新鮮な話も多いなとあらためて思う。


…で、以下は聞いた内容を元に自分が勝手に考えたことで、トーク要約とか浅見さんの言葉や考え方では全然ない。…では僕の考え方なのか?というと、それも違うかもしれない、よくわからない謎の文章です。


たとえばスポーツ選手が試合に向けたトレーニングや調整を行うように、私も絵を描くために事前の身体調整は必要。ベストな力を発揮できるように準備するのは、画家がたとえば木の絵を描くなら、事前にその木を何度も見る。そして試し描きする。距離や角度や時間を変えて、何度も見ては描く。それによって、木をよりよくおぼえる。おぼえるというとき、それを絵としておぼえることになる。絵でおぼえるというのは、座標変換された値をおぼえるわけでもないし、言葉の意味としておぼえるわけでもない、木を見て感じたことをなるべくたくさんおぼえる。感じたという記憶そのものを蓄積するのだが、それが絵でおぼえるということなのか、それだけでは足りないかもしれない、とにかく絵特有のおぼえかたでおぼえると言うしかない。


そのおぼえかたでおぼえられたもの、絵というかたちの特有の普遍性のようなかたちはしているが、これが何をどのようにおぼえているということなのか、説明するのは難しい。だから「モノを見て描いている、そのまま観たままに描いている」と言っても、それは必ずしも、皆の共有できる約束事にしたがって見ているようにそれを見ているということではない。絵を描くためにモノを観るときそこに、観る私の網膜に映るイメージがあって、さらに固有な装置の働きがあって、その結果を私は知覚して記憶する。でもこれは私だけがそうしているわけではなくて、おそらく誰でも大体同じようにモノを観ているはずで、だから私の見たそれが、あなたにとってはまるで外国語のように意味不明だということはたぶん無い。でも絵はそれ自体が、皆の約束事のような側面もあるので、あなたが思っている絵と私が思っている絵が違っている可能性はある。それはあなたと私の関係の問題なので、とくに重要なことではない、あなたと私が、同じ絵でひとつの対象を確認し合うのが必ずしも適当でないケースもあるかもしれない、というだけだ。


いずれにせよ私がそれを見て、素描を繰り返して、やがて「描ける」と判断した、メモリへのロードが完了したというか充電が完了したというか、つまり固有な形式に対象がセットされた、それを固有な実行方法で出力できるようになった、そう判断した、私の脳内の記憶装置に、対象がたっぷりと多様な情報を蓄え込んで、それらのどれをもが容易に素早く引き出すことができる状態になった、準備完了した。そのとき丁度、去年の夏の終わりごろだった、ということは、この絵はその季節なのか、あるいは、準備をはじめてから完成するまでの十数ヶ月分の時間が全部圧縮されているのか。でもこの木は桜なんですけれども、花が満開の頃だと、キレイだけどかえって凄すぎて絵に描ける状態じゃないのです。でも花の前の、小さく蕾が、じつはほんの少し、このあたりに描いてあるかな。


そうなったら私は、まるで設計書に基づいた実装であるかのごとく徹底してシステマティックに仕事を開始する。始まったら、最初の記憶の鮮度と直接性を、なによりも優先させたい、後になって考えたことが混入してくるのを防ぎたい、最初の体験から収穫した記憶が、後の未体験から収穫された記憶によって濁るのは最悪だ。放っておくと私はすぐに余計なことを考えて、元々きれいに保存されていたものに、わざわざ手垢を付けてしまうのだ。そうならないためにも、作業はできるだけ自動化する。支持体の物質的な特性とかはある程度わかっているのだから、それを見越して、出来事に一々反応しないで、今までの経験や実績を信じて、手数が多ければ多いほど濁りは増えて当初の鮮度や香りは飛んでしまうのだから、理想は作業開始から終了まで、一度も途中段階を確認することないままで行きたいくらいだ。


途中段階で見直しや修正は行われない、というか出来ない。一度始まったら終わりまで止められない。途中で仕切り直しも出来ないし、気持ちを入れ替えることもできない。思ったとおりに行かない部分が、思ったとおりの結果になればいいし、結果に裏切られたとしても、その結果まで取り込んで結果オーライと言えてしまえるならいい。プロセス至上で進めるけれども、因果や過程よりも結果が重要だ。いや結果だけが必要だ。とにかく後は、運を天にまかせるしかない。一度始まったら最後まで行くしかない。もう人間の仕事は半分終わっていて、でも常に緊張して、判断して、ときには慎重に、ときには大胆に、その判断ができるように心身のコンディションはずっと一定のレベルに保ち続けるように心身の維持はする、良き機械であろうとはする。機械を擬態するというか、植物を擬態しているようなものだ、ただの変化だ。


やがて、すべてが完了して画面が立ち上がる。そこまで来て画家はようやく最終的な結果を確認することができる。つまり我々のような一般の鑑賞者とあまり変わらないタイミングで、画家もその絵をはじめて鑑賞して、ああ良かったとか、ああ…とか、そういうことを思うのです。