その日以降


あのとき長谷川は、電話での誘いを断った。深く考えもせず、あっさりと気軽に断った。ごめんやっぱり今日はやめとく。ごめんね。電話でそう伝えて、それで長谷川は仕事を続けたけど、結局その日は、全然大した仕事なんてしなかった。別にあのとき帰ってもかまわなかった。なんであのとき切り上げなかったんだろう。なんですぐに目的地に向かわなかったのか。全然わからない。明確な理由も、深い意味もない。ただ、単にそう思って、なんとなく断っただけ。いや今日はやめとこう、そう思って、そう電話で告げた。電話の相手は、仲の良い、いつも気軽に話せる相手で、今でも変わらず友達だ。この十数年間、何度となく交わしてきたやりとりのひとつに過ぎない。それだけのこと。長谷川は今でもそのときのことを思い出す。あれからもう、15年が経つのだ。


思えばあの日以来、長谷川の運命は決定的に変わった。長谷川は今でもたまに思いに耽る。もしあの誘いを断ってなかったら、今頃、どうなっていたのだろう。もっと全然別の、想像もつかないような場所にいただろうか。そこが良いところなのか悪いところなのかわからないし、そこに行きたいのか行きたくないのかも、はっきりとはわからない。


でも面白いと思うのは、あのときはっきりと、何かが起きたのではなく、あのときはっきりと、何かが起きなかったのだ。あれは、起きなかった。という出来事だった。出来事は、別の場所で起きた。この世の中でいくつも起きていることのひとつとして、ありふれた、なんでもないような出来事として、それは起きた。長谷川は、それを別の場所で起きた出来事として、体験した。それは確かだ。それはどこかで起きた出来事で、少なくとも私の傍では何も起きなかった。それだけは確かだという、ほとんど情けなくなるような心残りを引き摺って、そのあとをいつものとおりに、生きる事になったということかしら。それが決定的になった日、ということかしら。あの日こそが、今まで生きてきた中で、たぶんもっともはっきりとした、深くえぐられたようにふたつに割れた、最初で最後の分かれ道だったということかしら。右に行くか、左に行くかの選択の日だったということ?私はそんなこと、全然気付かなかった。私は、何も考えずに気軽に、歩を進めた。いったい、何を選んだの?単にそれまでと同じ歩みを歩いた。それだけのはず。


長谷川が仮に、あの誘いを断ってなかったとして、じつはそれでも、事態が何か変わったわけではないと思う。僕はそう思う。最初からわかっている事だ。長谷川はだから、今に至るまで、一度も後悔や自己憐憫などに浸ってなどいない筈だ。するはずがない。だって、そんなはっきりと手に触れた感触なんて、何もないのだから。彼女は分かれ道を選択したわけではない、たぶんそうだ。右も左も選んでない。じつは何の関係もない。ぜんぜん関係ないのだ。最初からそうなのだ。そして彼女は常に毅然としている。今も昔もそうだ。それは決して、何も変わらないのだ。とはいえ、何も変わらないのは、彼女が、どうあがいても結局は、その日以降を生きているからかもしれない。その日以降、彼女は本来の彼女から、そう簡単には変われなくなってしまったのだ。でも、そうだとしても僕には彼女は彼女だと思う。そのようにしか見えない。僕は、長谷川を知ってから、まだ2年しか経ってないから。