今日は友達5人で横浜の手相占いの店に行った。僕は占いは、生まれてはじめて診てもらった。まあまあ面白かったけど、でもそれほどでもなかったかな。これもまさに出会いだろう。いい占い師と出会えたら、それは面白いのかもしれないが、そうじゃないと、占いというのは、単に可能性を狭くするだけの作用しかないような気がする。つまり、自分と占い師とのあいだで、その場でいきなり「今」(つまり過去)をシンクロさせて、そこから先の色々なことを楽しくイメージして共有する遊びなのかもね、と思う。


その後で中華料理を食べたが、そのときは占いよりも料理のほうがよっぽど素晴らしいと思った。占いと料理は較べること自体ばかばかしいが、しかし占いがあまり可能性を広げてくれないようにおもったのに大して、料理は後になってから記憶に思い出すだけでも、奥深い何かが広がっていて、それによって可能性が開けているような気がしてしまう。料理一つ一つは閉じていて暗いのに、ちゃんとその場で素晴らしくおいしく、あとになって思い出しても、何かとのつながりや広がりが余韻としてある。占いにも、そういうものがあるのだとすれば、それはすばらしいと思うが、しかしそれはどうだろうか。つまらないような大げさなような感じで言えば、やはり信仰を土台にしていなくて、占い師と自分だけでは、そこで出てきた話は何にもつながらずに消えてしまうような気がする。…いや、でも、それではむしろ、まったく可能性を最初からあきらめた話でしかなく、如何にも保守的な考え方かもしれない。何も実を結ばなくても、虚しくても面白くなくてもそれであたりまえで、この現実を、占い師と自分だけで、それだけ展開できるのか?という、そこにはじめて、何か賭けるべきものがあるとも言える。ということは、僕は占いについて、まだまだ何も語れないレベルの、今ようやくその入口の手前にいるだけとなる。


しかし、おいしい料理一品が、そういう奥行きのある凄さをもっているのは間違いないが、店、というのはまた別で、これはこれで、別種の難しさをもっている。店は、大げさに言えばある種の禍々しさを秘めた、呪われた場所のようなもので、料理の側ではなく、人間の側にある場所だ。しかし料理に出会うためには、店に行くしかない。また、おそらく、店を無視して、おいしい料理というものは成立しない。店で食べる、というのが、料理の何割かにあらかじめ含まれている。文化や時代の変遷に関わらず、おそらくそれはそうだ。


占いというのは何か。占い師のやっていることを、ものすごく意地悪く言えば、前半で相手の過去の出来事や今の気分や行動傾向などの事実をいったん確認・共有して、了承を取り付けて、その場での信頼関係を築いたら、あとは枠内である程度整合した一個のストーリーを渡してあげるというような感じだろうか。要するに、外部参照ありの、二段構えのスタイルになっている。何の後ろ盾もないから、どうしても、一発で成り立たせるのは難しい。でも、診てもらう相手がそのように距離をとって受け止めていたら、占いは成立しないので、こちらも相手にシンクロする。それはお互いにとって疲れることだが、たぶんそこにしか可能性はない。そして大抵は面白くないことになる。


食べるのは、どうしても身体的なことなので、そこに信頼の根拠があるというのはある。複雑な味というが、いくつかの組み合わせの意外さで、口の中に海ができたり香りの強い草むらができたりして、その口腔内の幻想を楽しんでいるだけのこととも言える。手相占いだと、手は身体だが、いきなり、そこに何か書かれているから、それを読むという、そもそも、唐突に抽象的なことになる。それをいきなり相手がやろうとして、こちらもシンクロしようとする。やはりそれほど成功率の高くないゲームだろうと思う。いずれにせよ、儀式への慣れがまずは必要で、あとは解釈を巡る問題になる。というか、提案された事案に対して、それで実施してみるかどうかということで、これは厳しい決断となる。だからそれだとむしろ「あなたのこと」じゃないほうが全然よくて、人の占いの一部が自分の事だった、というような感じになる、今回のような複数人数制は、まだかろうじて面白いかもと思った。


つまり五人が全員、狭い部屋に入って、一人ずつ見てもらったので、占い師は端から順々に診ていくのを、皆が聞いているのだが、それだと、自分はこう云われた、相手はこう云われた、それは俺も云われた、私はそのことは聞かれなかった、と、だんだん、この話はむしろ自分に対しての方がいいんじゃないかとか、さっきの話が今この相手にふさわしいんじゃないかとか、色々と思いが巡り出して渾然とした感じになってくる。だからそうやって連続して喋り続けられたことが、そのうちの誰のことでもなく、いわば五人一緒を、そのままみた。という意味の占いということになってしまうのではないか。むしろそういうことだと思ったほうが面白いのではないかとも思う。