志賀氏

志賀直哉の「焚き火」「ある一頁」など、たいへんいい。「ある一頁」はとくに、自分がもともと、ブログとか日記で書きたい、文章で実現したい何かって、こういう感じだったかもなあ…と強く思わされた。

志賀作品の多くが、各登場人物たちの強烈な存在感、主人公のイラつきとか心身不調に影響された気分、あるいは出来心のような親切心、かつて無頼派から批判されたような、そこに潜むある種の図々しさもたしかに認められる気はするが、それもふくめた「この私」の対象化の試みだ。告白ではなく描写。それを読んだ感想として、小説の神様とか名人芸とか枯淡の境地とか言ってしまうのは、とてもつまらないのだが、作品そのものはやはり「おお…いいかんじ」と思わせてくれる。

ところで並行して読んでいる藤枝静男志賀直哉天皇中野重治」のなかで、若い頃の藤枝静雄が、志賀直哉の家に遊びにいってた頃の回想話。面白いし短いので全部引用する。こんなおじさん、今ならいろいろ言われそうだが、昔はこんなものだったのだろう。ついさっきまで作品を作っていた小説家の荒ぶる様子。奥さんに怒鳴ってる、いかにも昔っぽい感じ。

 昭和三十一年一月十五日、浜松から上京して志賀邸の門を入ると、露地の堀寄りに、小さな立札が立っていて「仕事中面会謝絶、但し家族への面会はその限りにあらず」という意味のことが記してあった。
 私はいったん帰ろうとしたが、持ってきたものを玄関で夫人にお渡ししてすぐ引き返そうと思いかえしてベルを押した。しかし夫人は、せっかく遠くから来たのだからとともかく入れ、と勧めて下さった。おそるおそる夫人の後ろから食堂を覗くと、志賀氏は向こうの端のソファの上に、長々と仰向けに、毛布を額までかぶって、頭だけを出して眠って居られた。少し気味が悪かった。
 私が黙って後戻りすると、夫人が「それではこちらでお茶を召し上がってから」と云われ、そう云われるとまたも私は思い切りわるく台所へ入れてもらって、煙草をのんでいた。
 食堂で、いつもの志賀氏のやや甲高い張りのある声がして「いいから入りたまえ」と呼ばれた。私は喜んで入って行った。
 氏はソファに起き上がって「ああ、しばらく、変りなかった?いつ出て来たの?」とやつぎばやに訊ねられ、それから「久しぶりで原稿書いた」と元気に云って私に椅子をすすめられた。「もう、ひとつはできて渡した。『白い線』という題をつけた。わりにうまく行った」続けて「例の『祖父』の続きにとりかかったんだけど、面倒臭くなって弱った」と云われた。いつもより少し苛々して、身のまわりの色々のこまかいことに気がつかれるように見えた。
 頬から額のあたりまで斑らに赤く上気して、眼が光って、こわい顔をしている。
 「批評家なんて無用の長物だ」、突然はげしく云われた。「原稿にも、はじめの方に書いておいた。──僕がもう興味を失ってしまっているような昔のものを色々に云ってばかりいる」。
 続けて「白い線」の筋を話され、「書く身になれば、同じようなものを何時までも書いてる気がしないのは当り前だ。昔から自分の型みたいなものを破ることに相当努力してやって来た」と云われた。「大体批評家は、向こうから小説の方に足を運んで、その人に即して考えるという努力をしない。そういうことを面倒がって、勝手に自分のワクみたいなものを持って来て人の作品にあてはめて、小説になってないとか、あそこが足りないとか、こっちがはみ出してるとか云う。こっちはそういう小説らしい小説を書くのがいやになったから、ワクをはみ出しても自分で小説と思うものを書こうとしているんだ」と不満を洩らされた。「絵だって音楽だって各人各様で、どんどん前の型はこわしてやってるんだから、小説だって勝手なことをやらしてもらってもいいだろう」。
 手洗に立たれ、途中で「廊下に水がこぼれてるから」と大声で夫人に注意された。すぐ帰りに「おい、康子」と前の三倍位の、癇癪玉の破裂したような声で「拭いとけと云ったら拭いとけ」と怒鳴りつけた。
 私は金縛りのようになって、立てなくなってしまった。仕事の気がまだ身体じゅうに張りつめている有様は本当に恐しかった。

「仕事中」 藤枝静男志賀直哉天皇中野重治」より