かねがふち


秋晴れ。不透明水彩絵の具のブルーをぼってりと厚く塗りこんだような濃い青空。桜の紅葉が、完全な赤ではないがゆえの淡い微妙な赤味を帯びてまだらに染まっているのがうつくしい。桜の紅葉がもっともうつくしい理由は、ドウダンツツジやモミジの派手で鮮やかな紅葉と比較して云々などという理由ではなくて、単に毎日それを見るからだ。毎日見て、それをうつくしいと思っているなら、それが一番になるのは当たり前だ。


北千住で半蔵門線に乗り換えて清澄白河まで行く途中、鐘ヶ淵駅を過ぎる前の、窓から見える風景を見ていつも思うのだが、窓の下半分が全部土手で覆われていて、上を白いガードレールがずーっと続いているのを見ていると、その向こうにあるのは荒川だという事はわかっていても、電車の窓枠に切り取られたあの景色を見る限りでは、どう考えても土手の向こう側に、海が広がっているとしか思えないのだ。あれはどうみても、そういう風景である。鐘ヶ淵に降りた事は一度もないのだが、今度一度あの土手の上に立って確かめてやろうかとも思う。いや、でも荒川があるのはわかっているのだが…。


MOTコレクション 特集展示 岡粼乾二郎」を観る。「あかさかみつけ」を初めて(!)観る事ができて、感動しました。感動というのは、その仕事の一貫性というか、その一貫した固有性みたいなものを強烈に感じたからだと思う。かつ、ひとつひとつのテクスチャーのうつくしさがすごい。予想ではもっとヘナヘナのヨレヨレ感が強いのかと思っていたが、全然「立派」な感じだった。がっちりと絵肌をもつフォルムの強靭な組み合わせであり、もうこのままで絵の構造そのものという感じに思えた。とはいえ、この作りのなんでもなさ、あっけなさ、ありふれたたたずまいのしょぼさ。それら全体のあらわれかたの醸し出す印象にも改めてうたれた。さらに、それらが壁面にまったく同じフォルムでリフレインのように反復して配置されていることの、実に何の変哲もない事それ自体の強さにも。何事かが確かに起きている、と強く感じさせられるということ。それだけの事なのだが、それ以外の何も必要ではない事が事後的にわかるという意味での作品。「無駄」とか「余計さ」というものを仮想敵みたいな対象にして、それを巡ってどうこうするのではなく、最初から「それが無い出来事」として平然と指し示せる手段というのが、作品の提示ということなのか。くだらないものに気をとられているうちは、くだらなくないものがなぜくだらなくないのかの理由はわからないということを、くだらなくないものを観ることで事後的にわかるという意味での作品。


絵画での、筆跡としての図と、タッチの接触を間逃れて残された地とで構成された諸関係が、見つめていると、そのどちらが主でどちらが従かがわからなくなり、そこで何が起こっているのかの判断に深い揺らぎが生じ、目まぐるしく明滅する認識の運動だけに脳内処理が占拠される。その運動を活気付けようとでもするかのように、隣にも作品が配置されているので、その二つの作品のあいだの距離間を、あらためて確かめつつ、隣り合った作品でも個別に起きている出来事を感じて、とりあえず今まで観ていた、この目の前にある作品で起こっていると思われる出来事との、それらが関連している、というか、何かを共有している予感、というか、おそらく元が同じところであり、そこから派生してきた何からしき気配があるから、隣にあるそちらの作品での明滅状況も同じように観察してしまい、その明滅の配置を確認して、主従を確定する際の手がかりにしたいと無意識のうちに考えが澱むのだが、出来事はそのような結論に甘んじることを許してくれるほど簡単ではないので、結局は忙しない明滅に煽られ続ける時間がいつまでも続く。この経験自体が、果たして良いことなのか悪いことなのかが、そもそもよくわからないという気分にもさせられる。


とはいえそれはやはり絵画であり、普通の風景を描いた絵画、のようなものとも、はるか彼方で繋がっているようにも思えるような絵画であり、そういういわば、普通の絵画の記憶。いわゆる「普通の絵画」というものがこの世にあるとして…その絵画はとても「良い作品」であるとして…観るに値すると確信されるような、良い作品がもっているたくさんの要素というものがあって、それらは全て過去なのだが、それらひとつひとつを一々思い出すように感じる事はいつでもできるのだが、ひとつひとつをすべて(いつでも使えるように)憶えておく事は当然できない。しかし、今回の岡崎絵画作品を観ていて、とくに中程にある大きめの一点を観た時、これはある意味、そういう「普通の作品」というものが、そのようなものとして成り立つときの要素の記憶ひとつひとつが、かなりの精度でここの全部収まってしまっているのではないか?というように一瞬感じられ、その事に感動した。…というか、感動した、というよりも、もう心底うんざりしたという気持ちのほうが勝ったかもしれない。うわーもうこれはすごすぎる。俺には到底ムリ。みたいな気分に一瞬陥ってしまった…。まあ、そのくらい良かった、見応えがあった。


レベッカ・ホルンはどの作品も楽しく、真鍮性の部品やモーターで稼動する歯車の動きがきれいで楽しかった。もっとも良いと思った作品は1972年の「Pencil Mask」というパフォーマンスで、尖ったモノと肉体と硬質軟質の組み合わせと描画とか感情的なものとかの色々な要素がすごく上手く作品として統合されていて良いなぁと思った。ただ若干くたびれてしまい、上映されていた映像作品の鑑賞は丸々パスして帰路についた。


帰りは大江戸線にて、上野御徒町で下車してツタヤでDVDを返しから、そのまま湯島まで歩き、千代田線で北千住まで行ってちょっと買い物してから帰った。暖かい日差しの一日で、帰りは日も翳ったがそれでも肌寒くはなかった。