無人の風景


無人の風景というけれども、風景を見ているとき、自分もその場にいるのか否か。自分も風景の一部だという意識があるか否か。いや、そもそもそれを、無人であろうとなかろうと、風景だと思った時点で、視界と自分とは一旦切り離されると考えた方がいい。風景だと思った時点で、自分が風景の一部であることをやめる。テレビを見ているのと同等な状態になる。ということは、風景だと思ってない時点では、自分も風景も一緒くたで混沌としているはず。


芝居とか、色々な形式表現を鑑賞しているときも、それが始まったことを、認識した時点で、自分は目の前のことと同化するのをやめる。一旦引き離して、それを無人の風景のように見つめる。そこに、今はじめて来た人のように、目の前の人にあらためて気付く。それが始まるまでは、芝居も鑑賞者も見分けが付かない。一緒くたになっている。


先日「造成居住区の午後」を読んでたら「列車の窓の外に一瞬現れる『無人』の場所、或いは『無人の部屋』」という言葉が出てきた。思いがけず、見てしまう、見えてしまうもの、こういう事は、よくある。公園とか、広場とか、鬱蒼とした雑木林の中の、ぽっかり開いた空き地とか。


電車に乗っていて見えた風景なら、やっぱり視線はあるんだから、無人ではないじゃないか、と反論できるだろうが、いや、そうではなく、むしろ、このようにしか「無人の風景」というのは成立しないのではないか。


何年か前に、電車の窓から、幼稚園だか小学校だかの校庭が見えたことがあった。そこでは、園児たちと、保育職員たちと、保護者たちとが集まって、何か集会なのか、学芸会なのか、お芝居なのか、とにかく集まり合って何かやっていた。


これも「無人の風景」に近かった。感触としては、現実から離れてしまったときの畏れと慄きがあった。何か、やばいものを見たという感触が残った。誰が見ているのか、なぜ見ることができたのかがわからない風景を、うっかり見てしまったときの怯えが心に生じた。


母親だったか誰だったか、親しい人と話をしていたのに、相手がいきなり、静止画像のように停止してしまう、そういう夢を見たことがあった。静止してしまったので、仕方がないので、僕は手持ち無沙汰なのだ。あたりを見回して、何かする事がないか探すのだ。しかし静止している相手自体を、よくよく見つめたり、手で触れたりするのは、はばかられるのだ。それは、異なる位相に触れることになる気がして、よくないことが、起こりそうな気がして、どうしても気がすすまない。見たいが、しかし見るべきではない、と感じさせるもの。本物の「無人の風景」はそのあたりにありそうな気もする。