母の伝手で、観世能楽堂に行く。番組は舞囃子「清経」、能「卒塔婆小町」、狂言「察化」、能「石橋」。能の観劇は五、六年ぶりのはず。昔も今もまるで素人としてみるだけ。ただし事前講座というものが開かれていたらしくその際のテキストだけもらって、今日も持参しているので、演目のあらすじや台詞と現代語訳などを確認することができる。これが無ければ、正直あれだけの長時間、目の前のことを見続けているのは難しいと思われる。


卒塔婆小町」はまさに、これぞ幽玄、みたいな言葉を用いたほうが良さそうな、能というもののイメージそのものという感じで、まず演者が舞台にあらわれるまでの、地謡と呼ばれる後ろに坐ってる人たちの歌と拍子のひたすら続くその長さが驚異的で、うわー能のこういう時間感覚。これほどまでに長い時間を、何事もなく舞台空間を見つめているようなものは、ほかにあまり例がないのではと思われる。やがて僧侶とその付き人が舞台袖からあらわれるが、彼らもまるでスローモーションというかコマ送りのようなスピードで移動する。この時間の使い方、物事というか物語というか、とにかく何かが始まるまでの間のもたせ方のあまりの長大さに、これはなかなか凄い独自なものだとあらためて思う。このような進行で進む「物語」というのは、ほとんど芝居というものではない、というか、ある出来事を再現させているものではないとしか思えない。


シテ(小町)が登場するシーンも凄い。静止画をみているように、ひたすら横向きの姿のまま、それが少しずつ少しずつ、移動している。小野小町のなれの果ての乞食の老婆。ほとんど幽霊に近い。これほど遅い幽霊があるのか。いや、幽霊ではなく、生きているのだ。やがて、小町がかつて小町に恋焦がれて死んだ何とかいう人の亡霊にとりつかれてしまい、昔の烏帽子にきれいな衣装で踊り出す。最初に登場してきた質素で地味な色合いから華やかさへの変容とか、舞がもたらす前半とのコントラストとかのわかりやすい対比関係があり、終わりへ収束していく。


これがもしかすると、大昔の、世阿弥とかがつくりあげたもの、つまり人の、感情移入の余地というか、目の前の何かをみた人の感情が収納されるべき、あたらしい入れ物の発明であり、そのかたちを今、見ているようなものかもしれないとも、思った。それと、あとは地謡の歌と拍子の、これは素人にも凄いと思わせるだけの音楽的な力強さがあって、聞いてる間、濃厚な芳醇さに包まれていることを意識している。声の裏返っていき、空間に消えていく際の余韻の繊細さ。しかしこれほど空間に密接な音楽はほかにないんじゃないか。けして定間隔的、打撃的、構築的、ではなく、今ある空間のその時々で目印のように視線の先のその次にクサビを打ってまた次へ移ろうような、空間のある一定の領域にだけ色合いを染めているような、これは計り知れないような効果である。いわゆる「型」みたいなものとか、幾何学性、抽象性みたいな、能のビジュアル的なイメージよりも、耳に聴こえてくるものの方がはるかに空間というものの触感を伝えてくるように思われる。


ちなみにその後、狂言をみて、あと仕舞という演舞を見ていたら、何しろ長いし、そのあたりから猛烈に眠くなって、最後の「石橋」も猛烈な睡魔とたたかうことになる。「石橋」は派手なので良いのだけど、でも今日は自分としては「卒塔婆小町」のように、手元に「物語」の現代語訳があって、それを確認しながら観ているほうが面白かったようだ。まあ、でも五時間近くあるのは正直、長い。アンゲロプロスなんか比較にならないくらいの凄まじい長回し。これ、眠くなったら眠ってもいいという決まりがあるような催しではないのか?じっさい、それでもかまわない気がする。なにしろ、最後まで観るのは凄いパワーがいる。正直、半分の演目数で値段も半分ならいいかも。でも逆にこれだけ長くがっつりとやってくれて、それを忍耐で受け入れる経験を重ねる方がいいかもしれないが。