晦日の朝、起きると同時に背中から左腕にかけてにぶい痛み。それが起き上がってからも、いつまでも痛い。寝違えたとか、捻ったような感じとは違うような気がして、妙にぼやっと痛みの中心がはっきりせず、腕が水平よりも高く上がらず、これはもしや、四十肩と呼ばれる症状なのではないか、と疑う。四十肩…。そんな、如何にもなベタに中年っぽい名前の症状が、よりによってこの年の瀬の自分の身の上にあらわれるだなんて、なんかある種のご利益の反対の災い的な、ふだんあまりそういうことを気にしないのだが、でもリーマンショックの余波が二年後くらいに来たみたいに、厄年の残余がたまたま降りかかったみたいな、なぜかそのような、凶事というか、呪い的な何かを感じる。過去というよりもこれから何かもっと生きるうえでの災いが起こることの前兆のようなものとして。少なくともこの痛みはまず前提で、さあ2015年をどうぞみたいな。あれ、そういうことなの?と思って、いやでもそれならそれでいいかもね、とも思う。


一日、外出したり家にいたり、普通に過ごして、痛みの度合いはおそらくずっと一定で、しかし、じっとしているよりも動いている方が、痛みを感じない。身体を動かしている方が、気が紛れる。逆に、眠ろうとするときは辛い。身体を横にしていると、意識が最小の単純になって、それだと嫌でも、痛みを感じているという一点だけ浮かび上がってしまう。ただ我慢しているだけの自分を見出す。ああ、この受身の感じ。耐え難いとまでは云わないが、それでもかなりの不快さ、苦痛、厄介さを重く背負ったまま、じっとして、平静なふりで暗闇の中で目をつぶっている。ああ、嫌だな。でもこの感じが、もしかすると今年以降の基本スタンスなのかなと思う。


そして今朝、起きたら左腕は相変わらずで、さらに右腕にまで痛みがひろがっている。悪化した。いよいよ覚悟を決める。これは、メッセージである。多少しんどい要素があっても、目的のために力を尽くしなさいということ?思えば、昨日までは楽だったな。今日からは違うよ。でも、そんなの関係ないよ、やるべきことをやりなさい。それに気付いたときが、スタートのときだよ。ものは、考えようだね。今のこの事態を、自分にとっての好条件としなさいよ。この痛みこそが、自分を今までのような時間に戻さずに、その場に立ち止まらせてくれるのだ。自分が自分の「手癖」を失って、おそろしく不器用な線を引くのを発見しなさい。あら、よかったじゃない。あけましておめでとう。


例年通り、妻の実家に年始の挨拶に行く。驚くほど寒い日。コートの下の肩や胸や腰のあたりに、冷気がしみこんでくるようで、身体の芯から冷える。まるで歌舞伎の舞台みたいに、雪が斜めや横に散り散りに吹雪いているのを見ながら乾杯する。夜になって帰ってきた。昼間よりも寒さは和らいだような感じ。そして今日一日経って、これを書いてる今、痛みは軽い。なぜか、かなり症状が改善された気がする。普通に腕が上がるようになったし、コートやシャツを脱いだり着たりするのも普通にできる。たとえばワインのボトルを持って腕を水平にして少し遠いグラスに注ぐとか、そういう動きだとまだちょっと力が入りづらいのだが、なんとなくこのまま、治ってしまうか、気にならない程度の痛みになるかもしれない。そうだといいなあ。でもこれから寝るけど、その後が問題だ。明日の朝になったら、またどんな様子か、というところだ。


まあ、でもなんでもいいや。つまらないな。横光利一旅愁」下巻をひたすら読み進む。「旅愁」。これはやっぱり、なかなか、こんな小説は、日本のなかで、ちょっと他にないだろうとは思う。西洋とアジア。科学と道徳。論理と精神。カソリックと仏教。それぞれの問いの立て方自体は、ぜんぜん「そんなのわかりやす過ぎない?」と思うようなことばかりで、しかもそろそろ、西洋的「合目的」なものではない神=古神道的精神みたいな、ある意味かなり最悪に近い結論を主人公矢代は導き出そうとしているように思えてならなくて、いったい何が面白いのか自分でもよくわからないのに、なぜか読んでしまう。とくに下巻になってからは、かなり面白い。おそらく僕は、これらの登場人物を見下した目線で呼んでいるわけでは決してなくて、よくわからないが何かしらの切迫感を感じているから読んでいるのだとは思う。