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高校三年生の頃の九月に、自然肺気胸という病気にかかって半月ばかり入院していた。


入院生活は安静にして治癒を待つだけのことで何の苦痛も面倒も無い。静かで清潔でたいへん快適だった。このままいつまでもこうしていたいと思ったものだ。ベッドの上ではほとんどの時間、本を読んでいた。


看護士は若い女性が多く、忙しそうに立ち働き、たまにこちらにも話しかけてくる女性たちを身体を横たえたままただぼんやりと見ていた。看護士から、気にかけてもらえていると思うと心が浮き立つように嬉しく、無視されたり人並みかそれ以下のの扱いに感じたりすると、まるで大きな打撃を受けたように傷つき落ち込んだ。


看護士のなかでもとりわけうつくしいと思われる、名前を佐々野という女性がいて、その女性が病室に来るのを楽しみにしていた。しかし実際にベッド脇に来られると、僕は酷く緊張してしまい、焦ってぎこちない態度を取ったりするのが常であった。


あるとき、見舞いに来てくれた母の知人で割烹料理人の男性が、お見舞い品ということで、白身魚を捌いて持ってきてくださった。お見舞い品が刺身というのもすごい話だが、とくに食事制限があるわけでもないので僕はそれをおいしくいただいた。


そうしたら、その日の夜から酷い腹痛にみまわれ、トイレで嘔吐した。食中毒である。入院中に食中毒にかかる人も珍しいと思うが、かかったのだからしょうがない。とにかく死にそうになった。意識が朦朧とした。そこが病院でよかったというのかなんというか、今自分が掛かってる病気とは違う症状でこんなに苦しんでることに不条理と笑いを感じながら激しい気分の悪さに苦しんでいた。ふと気付くと、佐々野さんが立っているのが見えて、僕の腕にアルコールを塗り、「少し痛いですよ。」と言って、暖かい手で患部を抑え、冷たい止血帯を巻きつけ、そのまま速やかに注射針を刺した。今でもおぼえているが、この注射は相当痛かった。たぶん普通の注射ではないのだと思うが、目が見開かれ口が歪むのを抑えられないくらい激しい痛みである。食中毒の苦しみと注射の痛みと佐々野さんの手の感触が混ざり合った、限りなく恍惚に近い意識混迷状態に陥った。注射後、身体は劇的にラクになって、そのまま眠った。


大変だったのはその事件の夜くらいで、後はおおむね何事もない日々だった。ドストエフスキー罪と罰とか、太宰治の中期のものとか、大江健三郎の初期のものを読んだ。入院当初、満員だった四人部屋は、月の下旬頃には僕一人となってしまった。皆、退院したり移動してしまったのだ。誰もいなくなった病室で、ある日僕は窓から外の景色を見ていた。病室は三階にあり、下の駐車場を見下ろしていると、佐々野さんがいた。仕事が終わって帰るところらしく、いつもの白衣ではなく、普段着で、小さな赤ちゃんを抱いていた。あ、結婚してるのか、と思って、けっこうびっくりした。


そのときの、夕方から夜に向かう時間の空は少しずつ色合いを変え始めていて、見ている目の前でゆっくりと駐車場を照らす照明が点灯しはじめた。僕はそのとき、そういったさまざまな出来事すべてを、いま天の視点から見下ろすことができているような気がした。昨日退院した隣のベッドにいた小学生の子は、今頃見下ろしている下の地面のどこかで普通に暮らしていて、それと同時に、佐々野さんも赤ちゃんを抱いて自分の家に帰ろうとしていて、それぞれの世界とぞれぞれの時間がすべて遠いところで水が流れるように進んでいくのを感じた。バスが来て、何人かの人がバスに乗り込んで、そのバスが行ってしまってからは、またさらに、全然別の違う車が、行ったり来たりしていた。


その日の夜はいつもよりも静かで寂しく、病院に自分ひとりしかいない様な感じがした。もし佐々野さんが夜勤であってくれたら、僕は佐々野さんが見回りに来る十二時までは起きていようとしただろうが。僕の描いた絵を一度見てもらえば良かったとも思っていた。しかしその頃僕は自信をもって人に見せられるような絵など一枚だって描いてなかったようにも思うのだが。


僕には生きる目的がないとも思った。孤独を誇りに思ってさえいた僕だが、しかしふとしたときに大きな空しさに包まれたものだ。しかし結局、こうしてそのときの気分を書き記しておくのを、続けることだけは続けようとは思った。


十月からはまた学校へ通う日々が戻ってきた。そしてまたいつもの日常を繰り返している。