MEMORIA メモリア

ヒューマントラストシネマ有楽町で、アピチャッポン・ウィーラセタクンMEMORIA メモリア」(2021年)を観た。睡眠不足のせいでところどころ意識が飛んだ…けど、なかなか面白かった。辻褄の合わなさというか説明のつかなさみたいなものに、ずっとモヤモヤさせられつつ(それは話がわかりにくいということでもあるし、自分の寝落ちのせいでの見落としを疑ってるところもある)、後半に進むにつれて、ぼんやりと謎が溶けてくるというか、おおまかな物語の意図みたいなものが、(不可解な部分もたくさんあるにせよ)薄っすらと見えてくるのだが、しかしそれを知ったところで何になろうかという、ただえんえんと映される風景や雲の動きや雨の音を聴きつづけながら、これを観て、この音を聴き続けることでしか、この映画を観たことにはならないのだろうなと思う。(終盤に「アレ」が出てくる場面は、いやそれは、ちょっと蛇足ではと思ったが。)

落下音なのか、あるいは破裂音なのか、爆発音なのか、とにかくけっこうデカい音が「ドーン」と鳴る。観ていて、けっこうビクッと、座席から腰が軽く浮くくらいにはデカい音である(これで、眠気が一瞬覚めるのだけど、そのうちまたふっと意識が飛ぶ)。

日常生活の中に何の脈絡もなく、ある爆音が突然挿入される。まず映画として、この仕掛けが大変面白いのだが、しかもそれが聴こえているのは主人公だけ。これはたぶん(本人にとっては)かなり怖い、というか症状としてつらすぎる。もし自分なら発狂しそうだ。早く病院に行きなさいよという感じだし、主人公のジェシカ(ティルダ・スウィントン)も不眠に悩まされつつ、自らの症状についてさまざまに手を尽くして調べるのだが、それでもジェシカにとってそれが治癒させるべき症状なのか、もしかしたらそうじゃないのか、それをどう考えるべきなのかが、判然としてないようにも見える。ほとんど自省のなかでじっと自分の内面を手探りし続けてるような、よるべなき表情と態度のままにも見える。

録音技師の力を頼りて音響機器による音の再現を試み、ある程度の精度でそれの再現にジェシカは成功したかのようでもある。あらゆる表現や芸術が深層にある音や形象からの逃避あるいは接近としてあらわされるならば、ジェシカの行為はいかにも妥当な試みと思う。しかし、お世話になったはずの録音技師はなぜか途中で姿を消し、ジェシカはまだ「音」を克服できてない。そもそもこれは、この「音」とは、克服し共存するべきものではないのじゃないか。そのことをジェシカは初めから、薄々わかっていたということはないにしても、ある疑わしさ、いやな予感のようには感じていただろうし、だからこそ自動車に乗って、山の方へ導かれた。たぶん。(ジェシカのバストショットで、その移り変わっているはずの背景があいまいにしか確認できないいくつかの場面の、何という不安さだろうか)。

そこで出会った(録音技師と同じ名前をもつ)男から石に閉じ込められた記憶の話を聞き、自分はあらゆる記憶を蓄えておけるので、これ以上新たな経験をしないよう日常を送っているのだという話を聞き、夢も見ずに完全なる「無」の状態で眠るのだとの話を聞き、実際に眠ってみせた彼が、ほぼ「死んでいる」様子を、彼女は男のかたわらで、川の流れ続ける音を背景にただ見守る。

男はそのように死んで、また起きる。すべてを記憶しているし、過去から現在までのさまざまな記憶が、石の中に蓄えられているのを知っている。彼との出会いを経たジェシカは、もはやその記憶が自分のものであろうが他人のものであろうが、今ここが時間上のどの位置にあろうが、ほとんど問題じゃないところに行ってしまったかのようだ。

通常、人に死は許されてない。自殺とは死が訪れるような状況へ自分の身体を運ぶことのできる自由というだけだ。死そのものを、自ら召喚することはできない。にもかかわらず、いつか必ず死は訪れる。ゆえに人は死という枠の外側からの視点をもつことができない。しかし、この男にはそれが可能らしい。ああ、この人は「死」を知ってる、というか、眠るように死ぬことが出来る人なんだな…と思う。

(そして目覚めることができる人なんだな、、ということでもある。そもそも目覚めるというのは、本来人間に与えられている権利なのだろうか。なぜ僕たちは目覚めることができるのか。それは自らの意志によってなのか、許されているからなのか、考えてみるとはっきりしない。それがもし外部から許容されているのであれば、そうでなければ眠りから醒めることは適わなくなる。「死」から目覚めるのも「眠り」から目覚めるのも、もともと人間が最初に勝ち取って契約締結にこぎつけることのできた権利ではないはずだ。少なくとも「眠り」から目覚めることができるのは、なぜかわからないけど昔からの慣例にしたがって、うやむやのままにそのままであるだけだ。)

ふつうに夜になったら死んで、朝になったら生き返る。男はそれを単純に「無」だという。「無」であるなら、やはり死の枠の外側には出られていないのかもしれない。しかしその男のように死ぬことができるならば、死とは目覚めないことだと単純に定義してしまえる。これまで毎晩の習慣として行ってきた死と覚醒の反復が止まるだけだとわかる、ことになるだろうか。