観能


先日、喜多能楽堂にて。番組は能「巻絹」、狂言「文山立」、仕舞「野宮」、能「蝉丸」。鑑賞の手引きみたいな冊子があって、能の演目についてはあらすじ、見どころ、詞章と現代語訳が記載されていて、ちょうど映画の字幕を見るように、舞台を見ながらその冊子も見る。


能には地謡というコーラス隊がいて、囃子方というバンドがいる。囃子方の笛と太鼓と掛声から始まり、ワキ(脇役)が出てきて導入となり、やがてシテ(主役)が登場して演目の中心を形成する。どのお話でもほぼすべてその形式。


「巻絹」四番目物。あらすじは、熊野神社に巻絹を納めよとの命令をうけた臣下(ワキ)が、都からの到着が遅いので、届いたらすぐ知らせよと言う。やがて巻絹をもってあらわれた使者を、なぜ遅くなったのだと臣下は咎め、そのままお縄にする。縛られた使者。地謡が「罪の報いを知らせけりー罪の報いを知らせけりー」と謡う。やばいことになったという感じ。そこに、巫女(シテ)が登場する。巫女は「神がかり」で、この使者をなぜ縛るのか、この者は昨晩和歌を詠み、神様に奉納したものだと言う。その証拠を見せろと臣下が言うと、使者は和歌を詠む。地謡が盛り上がってきて、巫女の舞がじょじょにエスカレートし始める。舞が延々と続き、BPMが早くなってきて、ノリノリのトランス状態になる。やがて憑き物が落ちたようになって終わる。


巫女の舞いがすべて。という感じ。冒頭から巫女の登場までは、他の演目に感じられる異常に間延びした時間感覚があまり感じられない。しかし巫女が登場してからワキやツレとやり取りして物語の決着が着いたと思ったら、それもどこかにすっ飛んでしまって、あとはひたすら狂乱状態。狂乱と言っても能楽なので動きとか所作のパターンを延々くり返して、地謡の、説諭というか説教っぽいような神様の詔みたいなのが続くということになる。


「蝉丸」四番目物。あらすじは、天皇の第四子ながら生まれつき全盲の蝉丸は捨てられて出家し山に篭る。付き人が蝉丸を不憫に思い泣くが、蝉丸は自分の運命を受容している。藁小屋に入って一人琵琶を弾く蝉丸。その琵琶の音を聞いた一人の狂女があらわれる。髪が逆さに生えておりその苦悩のため狂女となった逆髪も、じつは元々天皇の第三子であり、姉と弟がここに再会する。二人は自らの運命について語り合い、やがて泣く泣く別れる。


典型的な悲劇モノ、メロドラマ的要素だけで出来ている感じ。ただし「巻絹」とは大きく異なり極端に動きが少なく、物語の進行はほぼすべて地謡によるもので、シテである逆髪とワキである蝉丸は共に向かい合って坐っているだけで、その二人の対話なのかそれぞれの頭の中の考え事なのか、あるいは二人をはなれた第三者的な主体なのか判然としないような位置から語られているように感じられる。


能は、正直、観ているのはひじょうにかったるいものであるが、たぶんこれ、何度も観ているうちに色々わかる事も多くなっていくだろうし、あらすじとか詞とかも、暗記とまでは行かなくても同じ演目を二度目三度目に観れば、ガイドブックなど無しでも観られるよになるだろう。そうなれば、より丹念に舞台上での各登場人事物の動きや関係などを観る事ができるようになり、さらに深く掘り下げていくこともできるだろう、というのがぼやっとわかった。でも、面白さについては何ともいえない。むしろ今の、ひじょうにかったるい思いをしながら、異様に間延びした時間の流れ方とか異様に唐突な展開とかの違和感を感じている方が、かえって刺激的かもしれない。今は確かに、能というものの、この形式に対して不思議な刺激を感じているのは確か。これをもっと「知ってしまう」と、たぶんつまらない。


いや、終了して、なかんか面白かったという気持ちで昨日は帰ってきたのだが、さっきまでウィキペディアとかで能楽について色々調べていて、それでざざっと上記のような感想をまとめたら、なんかものすごくつまらないものを書いた気がしてしょうがない…。ひじょうなかったるさだとか、異常な退屈さというのは、じつはつまらなさではない。この文章のような、通り一遍なものを、つまらないと言う。