銀座の観世能楽堂で第二十四回能尚会。番組は舞囃子高砂」、能「屋島」、狂言「惣八」、仕舞「花筐 狂」、能「乱」



舞台とは抽象的な平面空間、という感じがある。京都の庭も、そんな感じがするけれども、そのように囲ってあることの不自然さというか、無理な感じを、あえて隠してない、はじめから疑わしさを残したままの、それでもあえてその場に試そうとする、それら含みの試みの場のように感じられる。


まず囃子方が舞台に出てきて、続いて地謡が出てきて、まるで葬式に参列するかのように、厳かに各自の配置に付く。篳篥の音が強く響き、掛声が発されて、太鼓が鳴る。


それによって、今ここに、それまでとは違う時間と空間があらわれた事になる。というか、その時に、あるルールが敷かれた状態になる、と言った方が良いのか。つまり、「能」の始まる前と後とを区切る何か、としてルールが敷かれた、ここから先は、「能」の中の時間が流れる、という作用が働く。


そのルールは、ルールとして透明化されてないというか、あまりにも時代が違いすぎて自分には透明化されているように見えないし、自分の中には定着してないのだが、それは仕方がない。


舞踏であれ芝居であれ、なんらかの連続性である。ルールというのは、何らかの連続性を得ようとするための試みである、とも言えるだろうか。


ルールは、連続性を得ようとしたときに、そのための力が加わっている瞬間に、もっとも緊張が高まる。そして、連続性に勢いがついて拍車がかかりはじめた時に、ルールはそれ自体の特質をもっとも強く発揮する、のではないか。


「能」のような表現形式をふだんは観ないので、このルールが連続しようとして力が加わっていくときの感じが、観ていて一番面白いと感じる。つまり、オープニングのところが一番面白い、面白さと不安さと驚きがまぜこぜになる。つまり、あまり見慣れてない表現形式が、目の前で今立ち上がろうとしている有様の面白さである。


とにかく、時間が掛かる。ワキとツレが、対話している。舞台上で、台詞を言い合っている二人の人物が認められる。おお、芝居みたいだ、と思う。しかし、描写という感じはしない。もっと形式的なやり取りに見える。しかしそれが形式的に見えるのは、こちら側から観ているからなのか、あちら側では、それが普通なのか、そこもよくわからない。やがて、シテとツレが出てくる。彼らも、対話する。しかも、やはり、長い。延々と時間が過ぎていく、ような気がする。これだけの時間を使って、登場人物が一通り出て、さあこれからさらに連続しますよ、という空気を作っていく。


この空気を作る過程の遅さが、ほんとうに「能」という形式の異常さだ。同時に、不安定さだ。不安定に感じるのだ。それまで「能」でなかった時間が「能」に変わっていこうとするときの緊張。それと同時に、能の世界と、それを見ている我々の、現在の感覚的世界との間に生まれる緊張感でもある。


しかし「屋島」には、疲労困憊した。約百十分。途中、間狂言が入ったりして、面白い部分もあるのだが、後半は地謡の唱にあわせて義経の幽霊がひたすら舞をやってる。これが、地謡の現代語訳を読んでるだけでは、舞台が見えないし、舞台を見てても、何を言ってるかわからないしで、次第に疲れてくる。この箇所はいわば、作品中の中心を成す部分ではあり、連続性に勢いがついて拍車がかかりはじめた時ということになるのだと思うが、わかってない人としては、むしろそういうあたりから飽きてしまって、じっとしたまま舞台を観ているのも、それなりに辛かったりする。


ということで毎度、辟易とするものはあるのだが、それはそれとして、また次回もぜひ観たいと思います。というか、少しぐらい事前に関連文献等を読んでおくなどの心掛けがないのだろうか。少しはちゃんと準備したらどうか。いつも、劇場を出るくらいのときに限ってそう思う。これは、更新料を支払った直後に引越ししたくなるのに似ている。