熔ける

大王製紙事件」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%8E%8B%E8%A3%BD%E7%B4%99%E4%BA%8B%E4%BB%B6)この事件はおぼえている。当時の大王製紙社長が、会社の資金を使って、カジノで計百六億円を失って、背任の罪で逮捕された。


当時、これは熱いな…と思った。誰かが、取り返しがつかないもう絶対に後戻りできない場所へ行ったんだなあ…などと思った。社長の逮捕後、若い社員の誰かが「新社長!お願いです俺を行かせて下さい、俺が明日からマカオに勝負に行きます、絶対に取り返します!俺にもう百億預けて下さい!!」とか、志願直訴しないのかしら、などと思いもした。


「熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録」(井川意高)、この前古本屋で百円で売っていたので、買って読んでみた。予想はしていたが、やはりあまり、面白い本ではない。


こういう本は、よく知らないけどたぶん、本人に話を聞いて、ゴーストライターが書くのだろう。インタビューのようにして、あるエピソードを聞いて、そのときの状況や思いなどを聞いて、それを文章に起こして書く。そういう感じがよく伝わってくる。本人の告白体的な文体だけど、大きな流れのようなものはなくて、一個一個の部分がスラスラとつながっているような印象で、こういうなめらかなものを読むと痛感するのだが、ゴーストライターだろうが本人の文章だろうが同じことで、つまり頭の中のイメージと、書かれた文字とのかけ離れ方を、どれだけ許さないでいられるかということで、書かれたもののそれなりの完成度に満足してしてしまわないで、頭の中のイメージに対してもっと強情になる、それによって完成度が下がったり野暮ったくかっこ悪くなったとしても、そこは妥協しないことが大事なのだとつくづく思う。


ギャンブルに身も心も奪われている状態を言語化できたら、それはそれだけで素晴らしいことだと思うのだが、これはなかなか難しい、というかまあ、そんなことは不可能だ。もちろん、所々かなり迫力ある個所はある。そもそも金曜の夜に会社の仕事が終わったらすぐ飛行機でマカオ行って、ホテルでシャワー浴びたらすぐカジノ行って、そのまま日曜日の夜までコーヒー飲むだけで、丸二日間、一睡もせず食事も取らずぶっ続けで勝負するのだ。それを、毎週週末が来るたびにくりかえすのだ。何千万円もタネ銭持ってきて、一日でスって、仕方なく下の時計屋で三百万のロレックスを十個買って、それをすぐ質屋に預けて千五百万作って、またすぐにカジノに戻ったりするのだ(笑)。VIP客は一晩で動かす金が桁違いなので、交通費も宿泊費もその雑費もすべてタダというか、傍に付いてるジャンケットと呼ばれる執事のような人物がすべて面倒みてくれる。このへんの話はひたすら興味深い。読んでいるうちにこちらまで、まあ一億円くらいなら一夜でなくなっても不思議じゃないという気にはなる。


しかしパチンコだろうが、バカラのVIPルームだろうが、一万円だろうが一億円だろうが、ギャンブルにうつつを抜かしている状態というのは、その渦中にある人間の心の中というのは全く変わらないというのは、かなり実感こもっている。それはリアリティだが、どちらかというと興ざめなリアリティである。やっぱ、そうだよなあという諦めのような感覚だ。その感覚を言葉にするのは、繰り返すがとても難しいのだ。本書内のかなり前半の方で、サイコロについて語られている下記の箇所など、あまりにバカバカしくて思わず声をあげて笑いそうになってしまったのだが、賭場にいると、本気で1足す1がわからなくなって、こういうことを心の底から真剣に考えてしまうのだろう。

1はマル一つ分の穴しかなく、6はマル6つ分の穴が彫られているため、面によって重さが違うせいで出目が変わってくるという説もある。だが、最近のサイコロはすべての面が同じ重さになるように設計されているため、こうした物理的要因は関係ない。
 サイコロを投げるときの力の強さ、ひねり具合によって転がり方は変わってくるし、柔らかい材質のテーブルで上で転がしたときと、金属やガラスなど硬いテーブルの上で転がしたときでは転がり方は当然変わってくる。実に多くの要因が複雑にからみ合っているため、サイコロの出目は神のみぞ知る摩訶不思議な世界だ。

…って、そんなの当たり前だろ!(笑)と突っ込まずにはいられない。こういう言葉が真剣な調子でまともに記述されているあたりが面白味である。