まぼろし

図書館に行くが、返却すべき本を家に忘れた。というか、一冊借りてることを忘れてた。ひどいな、だんだん物忘れがひどくなる。今朝なんか妻に「この前買った梨を食べよう」と言って、冷蔵庫の中を探したのだけれど、梨なんてどこにもない。どうしたんだっけ?食べちゃったんだっけ?そもそも、梨を買ったっけ?買ったよね。でもいつだっけ?やっぱり、食べちゃったのかな?とか何とか、夫婦揃って不思議がっている。いやになっちゃうな、これでは二人ともプーさん状態ではないか。

テレビ番組に出演していた俳優の新井浩文の表情をみていて、ああ、この目は忌野清志郎を思い出させるなあ、と思った。喋ったあとで、少しだけ目が泳ぐというか、すっと目線を下に下げて間が悪そうな様子になる感じ。一応愛想良くはしているけど、心では全然別のことを思ってるのが、ちらちらと表情に出る感じが。

夜、部屋でフィリップ・ド・ブロカまぼろしの市街戦」録画を観る。動物園と精神病院のドアが開いてしまうところから、あの幸福な夢のような世界が、ひたすら続くわけだ。その世界のすばらしさや幸福を、じつは誰もがわかっている。イギリス軍の上官でさえも、彼らの歓待を受けて、あれほど楽しそうな一夜を過ごしたではないか。ほんとうは誰もが、それをわかっているはずなのに、なぜかその幸福を自ら引き延ばそうとはしない。兵士たちは翌朝になれば、きちんとしたくをして、上官に率いられて出発しようとする。まるで、幸福は一夜で終わるものだし、だからこそ良いのだと言わんばかりだ。普段は与えられた仕事をきっちりと勤める、それが「まともな」人間の行動であると言わんばかりだ。そして彼らはあっという間に戦死してしまう。

楽しいことは一夜で終わるから味わい深いのだ、などと誰が決めたのか、昨夜の幸福は、今日も明日もずっと続くと、なぜ考えられないのか。それは何よりも自分のせいである。自分がそんなことを、夢にも思わないからだ。これは、自分以外の誰のせいでもない。世の中のせいでもない。それははっきりしている。しかし自分は、そしておそらく大多数の人も「一夜に限られるから、それは美味しいのだ」と、今も考えている。そう考えないためには、今までの自分を失くすほどの、決意と覚悟が必要である。たとえ全裸になったとしても、門は開かないかもしれないが…。

今、ウェブで調べたら本作の4Kデジタル修復版が来週(27日)から新宿で上映されるのか!すごい偶然。…というか、だったら映画館で観れば良かった…。

父親が死んで以来、貰い物の線香が家にたくさんあるのだが、本来の目的で線香に火をつけることは殆どないという、大変親不孝で供養心が欠如した態度で面目ないのだが、単なるお香として使いたいと思うことはたまにあって、とくに土曜日のだらーっと長い夜はことのほか香りをくゆらせたくなる。焚くなら、女子受けしそうなアロマ系とかではなく線香がいいのだ。(しかし風向きのせいなのか自室で焚いているのに隣室とかぜんぜん違う部屋の方がより香っているように感じられるのはなぜか…。)