水元

図書館で借りてた本を返却する。酒屋で酒を買う。パン屋でサンドイッチを買う。バスに乗って、車内で酒を保冷用水筒に移し替える。水元公園の前で下車する。あい変わらず、巨大な公園である。外は快晴。来園者も多い。日向は暑いほどで日陰は空気が肌に冷たい。杉やポプラの様子は、やはりあまりいい状態とはいえない。枯れた感じがどうにもみすぼらしいのは、台風に掻き回されたからだろうか。木々全体がどうにも褪せてくたびれた様子に感じられる。今年は(今年も)紅葉の色付きのはあまり期待できないか。


ベンチに座って、風に細かくさざなみを浮かべる水辺の流れを見て、さらにその向こう岸に広がっている三郷公園の遠景を見る。安物ワインを口に運ぶと、発泡する液体の冷たさが体内をぎゅっと収縮させて気持ちをさっぱりとさせてくれて、二人がかりでボトル一本分をあっという間に空にしてしまう。その後はいつもの通り双眼鏡を取り出して向こう岸の景色をひたすら見る。双眼鏡内の暗闇にぽっかりと空いた丸い穴の向こうに、あふれる光があって、その下を人間たちが思いのままにうろうろと動き回っているのを見る。すぐ手が届きそうな距離感で、芝生に人が寝そべっている周りを子供が跳ね回っていて、その手前の木や奥の草叢は平面的な書割りが貼り付いたようになっていて、遠近感が目を凝らすと浮かび上がる錯視画像みたいに再構成されて、光も粒子となって過剰に渦巻いている。双眼鏡から彼方を観るたびにいつも言葉をうしなう。やってることはつまり覗き行為であるが、しかし映画を観ているときの視覚体験におどろくほど近くもある。つまり映画というものが根本的には覗きと同一の体験であることを示しているとも言える。あの景色は、此方からはけして触れることができない、同じ時と場所に存在することがけしてかなわない彼方であり、覗くより他には、けして見ることができない世界である。だからこそ余計に、せつなく感動的である。