計画日前日


朝八時にケアマネさんとヘルパーさん来る。ヘルパーさんとは初対面。洗浄・清拭時に患者の患部の状態をはじめて見た。なかなか痛そうな、鮮やかな赤色。ヘルパーさんの手仕事の安定感に感心する。父親も軽口を叩いて、ケアマネさんもヘルパーさんも笑う。終始楽しげな雰囲気。他人が居るときの父親の振舞い方はいつもこうで、良いと思うときもあるし鬱陶しく感じるときもあるし、僕にとっては後者に思うことが多いが、それは僕の身内に対する狭量さでもあり、他人が父のそのような態度をわりと好意的に捉えているように感じられるのは、単に気を遣わせているだけというわけでもなくて、ふつうに場がうまく仕上がっているようなので、そのあたりは僕より父の方がよほど雰囲気を作っていくのは上手い。このあと昼前になったら介護用ベッド搬入の予定なので、そのときまた来ますとのことでサービスの二人は一旦去り、こちらはそれまでの間、ざっと周囲の掃除などする。父親は画家として主にこの田舎町でこれまで五十年近く絵を描き続けている人で、部屋の中はこれまでの絵と画材と木枠とキャンバスと、その他そういう諸々の、紙やら本やら郵便物やら、もう雑多かつ大量諸々なモノで溢れ返っていてほぼ収集がつかない状態になっていて、掃除と言ってもどこから手を付ければいいやらまるでわからず途方にくれるしかないような状況なのだが、そこはあえて、遠慮なく大胆に配置を替えたり一箇所にまとめてしまったり、思い切った断行の連続でがんがん整理してしまう。それくらい思い切らないと、もはや部屋中、足の踏み場もないのだ。


たぶんこれら集積物にも、一応その内訳に、意味というか家主である老人のこれまでの過去というか歴史のようなものが一々読み込めるはずで、そこに何がしかの物語をなんとなく想像できるこのは、今となってはこの老人の身内である自分くらいしかこの世に居ないのかもしれず、というかおそらく本人から、お前がそれを読み込まなければほかに誰がそれをするのかと、それを期待というか委託されているところもあるのかもしれず、もちろん父の友人や仕事上の関係者達も未だいるのだから、そういう人たちの方がふだん離れて生活している自分よりも、よほど当人についてある意味知っていて理解もしているというか理解しようという気があるというか、その可能性もあるかもしれないが、そこはやはり相手が身内であるかそうでないかという違いはあって、少なくとも父親本人は身内である自分とそうでない人を区別する気はあるようで、人によって身内というものをどう捉えているか、他人と区別しうるのか区別の強い条件にはならないのか、血のつながりだなんて、そんなのは重要でも何でもない、まったくそうではない、血のつながりなんかよりも、友人とか今この時空を共有する目の前の誰かとの関係性こそ信じるといったような感覚も、大いにありうると思うのだが、しかし父親はおそらくそう考えてないように思われる。僕は父親の仕事の質も本人のそのような感覚も基本的にはまったく受け継いでないし、それとは全く別の何かを見ているし今後も見ていたいというか率直にそう思いたいのだが、それはそれとして、こうなってしまった以上、可能な範囲内でやることはやるしかないと、そういう状況である。しかし、こう書き分けてしまうことの単純さも気にはなる。ほんとうに僕より父の方が、血のつながりを信じているなどと断言できるのか、そのように振る舞っているからと言って、そのように信じていると考えてしまって良いのか、そこには確たる何かはない。


たいへん静かな午前中である。父親は寝ているのか起きているのかわからないが、終始無言で、身動きひとつしない。窓の外は晴天で明るい光にみちている。ある程度片付いたので、そのあとしばらく椅子に座ってぼーっと窓の外を見ていた。冷蔵庫に缶ビールが一本あったのを取り出してきて、底面を見たら、消費期限が2016年、飲むとアサヒスーパードライではなくもっと安い130円くらいのビールみたいな味がした。窓を開けて上半身だけ外に出てみたら、思いのほか冷たい外気で、ずっと暖房に暖められていてぼけっとした気分が少し元に戻る、と思ったら、前方の急斜面の雑木林の向こうに何か動くものがあって、よくよく見ると驚いたことにイノシシが地面に鼻をこすりつけながらうろうろしている。野生のイノシシが徘徊しているとは、さすがに筋金入りの田舎だ。イノシシがいるじゃん、と父親に言うと、おぉ、おるんかぁ、昼間から歩きまわっとるかぁと、ふつうの声で返される。


掃除してたとき、ついでに何年も開けられてないような埃の積もった食器棚の中を覗いて、中の食器類を物色した。大したものは無いのだが長い間に買い集められたものの数と種類だけは色々あって、江戸切子のグラスとか、長崎で買ったらしい染付けの猪口など、まあまあ良いかもと思ったを幾つか手に取り、これもらっていいかねと聞く。おお、もってけと言う声を聞きつつ、いそいそとハンカチやタオルに包む。べつに返事がどうであれ、強奪していくつもりであった。こういうときの自分は実にお調子の良い自分本位な馬鹿息子に思えて、それがふと若い頃の甘えたような気分に混ざり合って懐かしい気になる。


介護ベッド搬入と患者の乗せ替え。ボタン操作で高低が変わり上半身部だけ角度も変えられる。これで、如何にも在宅で介護されているという雰囲気になって、ばかな話だが、そのもっともらしさにホッとさせられている。昼過ぎに家を出て帰路に着く、当初は入院させる目的で来たけど、あてが外れて自宅療養になって無駄足ぽかったけれども、介護品質において少なくとも昨日までよりは状態が向上したとは言えて、気分のかすかな軽さというか満足感をおぼえつつ鵜方駅に向かう。近鉄特急に乗って、コンビニで買った冷酒をさっきもらってきた猪口に注ぐ。ああうれしい、良かった。さらにこの戦利品もあるという事実も加えると、余計にこの二日間もまんざら無駄ではなかったと思えるのだから、僕というこの人も相当におろかだし気の毒なほどお幸せな人である。


電車に乗って窓の外を見ていたら、五十鈴川を過ぎたあたりで、空は曇っていて、山野の陰影がより深く暗く、それを背景に空から斜めに白い雪が降り始めた。まるで堪えていたものが堪えきれずに、力の抜けてしまったかのように、なすすべなくはらはらと、音もなく降り落ちているように見えた。おそろしく寒々とした景色だったが、可憐、と言いたいようなものを感じた。場所が五十鈴川あたりというのも、なかなか風情であるなあと思った。