小説はどのような手法で書かれていてもかまわないし、何をしたって良くて、そこに形式はなく定型もない、それはそうだが、ただし小説としての出来不出来は厳然として存在する、手法や出自や由来や経緯は問わないし、なんでもいいけど、よく出来た小説は存在するし、それ以外のほとんどすべてはイマイチのであると、それもそれで事実だろうが、良い小説と悪い小説というのが白黒分かつかのように存在しているわけでもなくて、実際は色々ぐしゃぐしゃで、そのぐしゃぐしゃの中におもしろさやつまらなさが、ほとんど作者や作品もまぜこぜな状態のままでばら撒かれているような状態なのではないか、というかそういう状態であってくれたら良いと思っている。しかしそのぐしゃぐしゃを、わざわざわかりやすく整理して説明してくれるところが、ある意味批評という行為の無粋で見苦しい側面というか、勿論批評は重要なのだけれどもその一点だけはどうしても付ける薬の無さという感じなのだが、小説に限らず映画でも音楽でも美術でもそうだろうが、あのジャンルはくだらないとかあの団体はまるでダメとかあんなの最初から良くないとか、それはそれで良いけれども、まあ人間/社会間問題政治一般な話はさておくとしても物質としての作品がまったく何もおもしろい要素が皆無という状態はありえず、どれもこれも少しずつはおもしろく、少しずつは退屈であり、その割合の差異含有混淆率の違いに過ぎず、それならお前は共同体を信じないのか共有条件にて取捨しないのか判断しないのか何を見ても何もかもおもしろいだけかと問われたらそうかもしれないでもそれじゃあおバカさんかな、うーんそうかもというリスクは孕みながらも、結局そのようなぐしゃぐしゃを見つめる視界の維持こそ優先されるべきだと思ってるんですと応えて、いつか途中で死ぬけれどもなるべくそれに囚われず、作ったものが傑作じゃなくてもそれはそれでかまわず、もちろん傑作足りうるよう努力はするが、そこに自己存在を賭ける必要もなく、ちょっとしたアイデアのご提案、こういうの悪くないと思うんだけど…と言いつつ、果てしなくプロトタイプのリリースを繰り返すという態度でよいのだと自分に言い聞かせている。