古井的


小説の登場人物が、行動したり自省したり対話したりするということは、小説内にそれらの出来事の描写が為されているとも言えるし、同時にその出来事が起こりうる場と時間に関して描写が為されているとも言える。登場人物が路上を歩いていて、知人とばったり出会って、対話をするとき、その登場人物二人は、おそらく路上で程よい距離で向き合って、あるいは並んで、お互いに対話しているのだろうと想像できるし、その時と場所のイメージは、読み手による個人差は生じるだろうが、おおよそ一般的に共通理解可能なものになるはずで、まったく突拍子のない時空間を想像をする方がむずかしい。ふつうの話の運び方であれば、実際かなりの省略によって、余計なことを考えさせずに、テンポよく話が流れていくよう促がされるので、読む者としてはより安定した時空間内での出来事としてそのイメージを思い浮かべることができる。


が、古井由吉の場合はそういう安定感が希薄で、むしろ宙吊り状態で霧の中をさまようような、常態的不安の中にいる感じなので、定常ペースで読み進むのに逡巡するので時間が掛かる、と少なくとも僕は強く感じる。古井由吉的な文体というか、あの独特なリズム感とか、ある言い切り方、間合い、呼吸感のようなものが、独特な作用としてあるのもわかるし、これらは登場人物の、あるいは小説そのものの息遣いとか呼吸、脈拍のような生々しさをもって読み手に迫ってくる作用はあるのもわかる。これこそが古井由吉を読む快楽に繋がっているのかとも思うが、僕はたぶん、古井由吉の文体そのものを面白いと思う気持ちが少ないというか、クセがすごいなあと思ってしまうところもあるので、気持ちが絶えないようにわりと頑張って読むすすめている感じである。


それにしてもほんの短い短編であっても、最初から最後まで何があったのかまとめて説明してみろと言われてもほとんど無理というか、取り留めが無いのだというよりもこれらの作品について取り留めのある説明をしたとしても意味がない、ぱらぱらとページを戻って、各エピソードの要点を振り返ってみても、それで作品全体の印象を思い出せるわけではない、結局読み返すことで、その流れに再度没入することでしか、あの感じは再現されない、つまり取り留めのなさが描かれた小説というか、しかし取り留めがない状態において、ところどころに、粘り気の違いがあるというのか、すべる場所とすべらない場所がまだら状にあるというのか、その混ざり具合というかバランスというか、やはりこの渾然具合、しかもそれがたった一人の独白的なものではなく他人、大抵の場合は女、や時間と空間も取り込んだ上での渾然具合なのだ。だからどの作品もけして登場人物の気分を表現しているみたいな事にはならず(そう読んでしまうと、なんとなく古臭いものに感じてしまう。)、少なくとも登場人物にとっての世界全体が、こんなの普通に書いても絶対にバラバラになってしまうはずなのにそうはならず、あの泥濘のような状態であらわれているのがすごい。大胆だなあと思うし、ここまで来るともう何でもアリだなと、半ば呆れるような気持ちにさせられる。