向嶋

幸田文に"すがの"というエッセイがある。初出は昭和二十五年、永井荷風全集14巻の付録である。

幸田露伴と文の親子は、終戦直後、住まいを転々とせざるを得なかった。もちろんこの親子だけではなく、すべての日本人がそうだった。「戦争は人に、さすらいの暮らしを教えた。」やがて、千葉県の菅野へたどり着いた。

あるとき、出版社の人と駅の商店までの路を歩いているとき、背の高い男性が歩いているのを発見する。連れの編集者が「あれ荷風だ。たしかに荷風先生だ。」と言う。永井荷風も、たまたまこの近隣に住んでいるとの話を、幸田文はつい先日初耳に聞いたばかりだった。

全くぼんやりとし果てたすぐ目の前を、いつものやや大股な足どりが過ぎて行き、私たちは同方向の道をそろそろと従った。薄日をしょって忽ち距離を放し、はやどぶ川を越えて消えるきつい背なかに、向嶋とお雪さんとがかさなり合って、なんというなつかしさだったろう。

幸田文は近隣で荷風を見かけたことを、帰宅後すぐ父に話す。

父は「ほう」と目をよこしてから、話の腰を折って、「おまえはまさか、いきなりな挨拶なんぞしたんじゃあるまいね。」行きたい方へ行きたいように歩いているものを、横あいから中婆さんが飛びだして来て勝手法界な挨拶などを長たらしくやられてはたまったものではない。感興も何も一時に吹っ飛んで迷惑不愉快この上もない。「おれならいやだね」と云うのである。まさかということばは信頼を期待しているかに見えて、実は十分な不信頼をあらわしているいやなことばだ。親の見る目に違いはなく、私のなかには「まさか」と云わせる危い性癖が沢山あって、そう云われてもしかたが無いものの、こんな場合にこの頃は、まさかと自分の実際との間にどれほどの隔りができていたかを、ひそかに勘定することで、父の当りつけることばを受け流し自ら慰めていた。誰が話して行ったのか、父は永井さんが一人で自炊生活をなさり、台所の籠を持って買物に出かけられることを知っていた。たしかに籠は掲げていらした。

父が私に読むようにわざわざ指してくれた本は十指に満たないだろう。ぼく東綺譚はその一冊である。父は新聞の連載も見ていたが、単行になって通読した。涼しい文章だと出版社の人に云ったと、あとから聞いた。私には「向嶋だよ」と手渡してくれた。当時住いはもう小石川だった。向嶋と云えば親子のあいだには無言に通じるものがあって、つっくるめて云えばひそっとした憐み合いというようなものであった。読後、どうだと云う。私たち親子ばかりでなく、この土地をこうもあわれ深く見てくれる人があろうとは。人も土地も事柄もあわれだと云った。もっと何かないかと云う。一トたび境遇を変えれば一変して救うべからざる懶婦となり、制御しがたい悍婦になる、---「あそこはきまりの悪い思いをさせられたの。」親子は愉快に笑った。これも無言に通じ合う理解があった。(中略)

 おかしなことに私は、お雪さんを時々おすみさんと云ってしまう。雪と墨とは皮肉だと人が云うが、そんなことを云われては哀しい。隅田川は私がかぶきりの頃、初生りの胡瓜を流して河童さんへご供養したときの、桟橋のとっぱなは透きとおった水だった。お花見時に葭簀張りのお茶屋がずらっと並んだ時分も、あの竹屋の渡しに乗れば船ばたは青かった。小学上級になって生意気に澄という字を覚えたからだろうが、ずっと私には隅は澄という思いがある。衰えて今は救いようのない濁りを湛えた隅田川、泥水稼業のかなしいお雪さんはそっくり私のふるさとの想いなのである。

「隅は澄という思いがある。」というフレーズをずいぶん前から忘れられない。おかげで墨田区という場所、隅田川という川が自分のなかで神秘化してしまって、その湿った場所、やわらかい土の場所に対する幻想の郷愁がいつもどこかで沸いては消えることがない。

露伴が娘にその本を手渡すとき、「良い小説だ」でもなく「永井さんだ」でもなく、「向嶋だよ」と云って渡したというのが、しみじみ感慨深い。小説とは小説として価値があるわけではなくて、ことばで出来ている「作りごと」であることに価値がある。そこでは「人も土地も事柄もあわれ」で、その力は読んだ者を強く捕えて放さないのっぴきならぬものだ。かつての時間を記憶する父と娘のあいだで無言に通じ合えるものそれ自体がここにあるから、父はその本を「向嶋だよ」と云って娘に渡すのである。