ヒズ・ガールズ・フライデー

ハワード・ホークス「ヒズ・ガールズ・フライデー」(1940年)をDVDで観る。これは…この映画の俳優や関係者たちが、事前にいったいどんな「練習」をしたら、これらのシーンをじっさいに撮影できるのだろうかと不思議になるような作品。異常な騒々しさと忙しなさが、異常に緻密な計算をもってつくられている感じ。最初から最後まで、ほとんどのシーンで二つ以上の出来事が同時に起こっている感じだ。登場人物の動きや言葉に応じて、画面に映ってるありとあらゆるものが連動するような。動いているのが人物なのか背景なのかほとんど判然としない、ただひたすらユサユサ、ワラワラと全体的に動き続けている。複数の電話が鳴って、ロザリンド・ラッセルが右の受話器に話すときと、左の受話器に話すときとで、対応も言葉も分裂して、混ざり合って、それと並行してケーリー・グラントがそれとはまったく別の話を、しかしロザリンド・ラッセルの話に聞き耳を立てて概要をある程度把握しつつ、受話器の向こうの相手にああじゃねえこうじゃねえとがなり立てる。意見の相違から激しく言い合いになり、突如として掛け合い漫才的事態が勃発するが、まるで溜まった水が溢れるかのように、あっという間にほどけて、女が舞台袖の扉の向こうへ捌けようとして逆に押しかけてきた他の連中に押し戻される。画面がわずかでも静止しないよう常に何者かが干渉し、流れが変わり、右や左から揺さぶりがかかり続ける。本作でのロザリンド・ラッセル的な人物や、ケーリー・グラント的な人物を、キャラクター的に思い浮かべることはわりに容易だと思うが、彼らがあんな風に喋り、こんな風に運動することを、まったく想像できない。というか運動の過程を観たことから受ける感触を、事前に想像することはほぼ無理だ。