堅気

バーのホステス、つまり堅気じゃない女であるが、男が身勝手に夢想しているそういう女のイメージを「花影」の葉子は体現しているというか、葉子こそがそんな女のイメージの原基になっているのじゃないかとも思う。しかしそれを心の奥で求めるのは男ではなくて、じつは堅気の女ではないか。

堅気な女は、堅気じゃない女を嫌い、軽蔑する。女が手に職をもち自活するということ、あるいは女が貞淑な妻として夫を支えるということ、堅気じゃない女はそのどれにもあてはまらない。女がそう定義したはずの自分を、堅気じゃない女は自らの存在でくつがえし否定する。女の辛さや喜びの規範を、堅気じゃない女は共有しない。あるいは忍従すべきこと、学ぶべきこと、乗り越えるべきことを、反則的にスキップして、美味しい果実だけを取ろうとしてる。それで済むと思っている。そんなものだと高をくくっている。

男が堅気じゃない女に惹かれて躍起になるのは、男が愚かだからだが、それをそれとして待つことに甘んじるのが堅気じゃない女の態度だ。現状に対するその居直り方が嫌だ。甘ったれていて、何の克己心もない。

しかし堅気じゃない女は、うつくしい。愛玩動物にように可愛い。だから愛玩される。ただ一方的にそれを受け入れる。そしてそれだけが続き、月日が経過し、しだいに年齢を重ね、あったはずのものを失くしていく。手に入ったものとそうではないものを勘定してみたときに、堅気じゃない女の胸の内にも、ぼんやりとした空虚がおそってくる。それが想像できる。

堅気な女は、堅気じゃない女を見るのが辛い。目を背けていたい。

花影という小説の読み手は誰もが「堅気な女」として、葉子を見るのではないか。見たくないもの、すなわち自分の欲望そのものの、じつは葉子に托したそれが、うつくしく滅んでいくのを知って、そんな堅気じゃない女の姿を見て、どこかで慰撫されているのではないか。そのようなとらえかたこそが「昭和的」なのだろうか。自分にはそれが、ふいにとてもなつかしいものを見てしまったかのように感じられている。