葉子

大岡昇平の「花影」に、坂本睦子というモデルがいるというのは知っていたが、ウィキペディアで見たら驚いた。なんと大岡昇平自身の愛人だったのか。で、他登場人物もそれなりにあてはまるモデルがいて、さらに小説の発表後は、色々と物議を醸したり色んな人が色んなことを言ったりと色々あったらしい。ひとまずそれはさておくとしても、登場人物たちの、ことに主人公葉子の活き活きとした言葉のやり取りは、あれはほんとうに実際に、その人物が、ああいう喋り方をするということなんだろうか、だとしたら、なかなかこれは、思わず引くほどに、生々しいものだなと思う。この髪の毛は本物を使ってますとか、これが当人の血痕ですとか、そういう類のことではないけど、書き言葉にも、そんな事実性(?)みたいなものは宿るのだろうか。自分がこんな風に日々書いているものの中にも、時折他人の誰かが喋ったことや書いた言葉をふいに文章中に取り込んでみたときに、その生々しさというか、浮きたったような鮮やかさを感じることはたしかにある。

「花影」の葉子が死にいたるまでの、彼女自身の心象は克明に描かれていくかのようで、じつはそうでもない、気配のような、悪い予感のようなものとして、死ははじめからずっと響いてはいるが、一番肝心な一瞬には何も書きこまれなかった、そんな印象を残したまま、気付いたらすでに彼女は故人となって、彼女が死んでしまった地点に語り手の時間は移動している。そこから事務的に予定通りに自殺の準備をすすめる彼女の姿が事後的記述として描かれる。「花影」はなにしろ、この語りの距離感コントロールがすばらしい。葉子が、最初から死ぬつもりだった、いつかは死ぬつもりだった、今死ぬわけはない、やっぱり死ぬことにした、いや最初からそのつもりだった、いくつもの可能性をひらいたままにしつつ、ただ彼女のかつて見た吉野の桜を、そして青山で見た桜を、その花の様子を想像させるだけにとどめて、そこまでの彼女を消してしまう。やはり小説とは人間による技術の産物であるから、そのようなイメージを作り出したのも技術で、技術の結果は成功すればするほど自然に近づくので、ことさら追悼とか鎮魂の意を読む理由もないのだけど、しかしその意志によってこれが作り出されたのだと言う考え方があるとしたら、それはそれでわからなくはない。とはいえやはり小説は追悼に向いてない。おそらく芸術は追悼や鎮魂とは真逆の営為だろう。