翻訳

しばらく前から、ピンチョン「重力の虹」を読んでいるのだが、この分厚くて重い本をふだん持ち歩き、電車の中で立ったまま、この本を開いて読むということに、少しずつ慣れつつある。とはいえこれ、いつになったら読み終わるのだろうか…。このペースだと、三年くらい掛かりそうな気がするのだが…。

しかし今更ながら、これは本来、英語で書かれた本なのだなあ…と思う。佐藤良明による翻訳は他の作品の解説注釈も含め、読んでいてとても面白いのだが「これは、こうだから面白いのである」という解釈を経由しての受容になる部分は、どうしてもある。つまり、脚注や解説無しでは、わからないことが多い。これはピンチョンの本である以上仕方がないことだし、だからこそ英語を読める人ならば、原文で読むべき本だろうと思う。

さらに、いわゆるマンガ的な擬音語・擬態語「aagghh!」とか「GAAHHH!」とかが「重力の虹」には頻出する(そのまま記載される)のだが、これなど思わず、先月観たクリスチャン・マークレーのマンガ的なオノマトペをモチーフにした作品群を思い出してしまう。あれもやはり、英語圏の文化を知らずして(知るとはつまり言語が理解可能なスペックでそれを受容できるという意味で)観ることの出来ないものではあるのだろうなと思う。

クリスチャン・マークレーのオノマトペ作品を、たとえばリキテンシュタインの作品と比較して考えるのはそもそも愚行(問題意識や目的が違う)かもしれないがそれはひとまずおくとして、仮にそれらを比較してどちらが優れてるとかそうじゃないとか、そういうことを判断するのは難しいことだと、今更のように思いもする。ポップ・アートであればウォーホルにすら、その作品の背後には言語(英語圏の感覚)が貼りついているだろうし、先日観たミニマル/コンセプチュアルだって(ミニマルであるがゆえになおさら)そうだ。

海外の文学が翻訳に頼らなければ読めないのと同じで、美術も翻訳に頼ってはいるのだ。美術の文献をという意味ではなく、直接この眼で作品を観るというレベルにおいても、どうしても「翻訳」の助けを借りないわけにはいかない。

いや、それはだから、考え方が逆なのだな…。ある言語や文化に閉じている世界から別の世界を見るのだからわからなくて当然で、そのわからなさを、まずは衝撃として受け止めなければいけないはずなのだ。その衝撃波を感じ取った自分が、後から根拠というか自分を落ち着かせるための下支えがほしいから、翻訳の向こう側にある何かをはじめて知ろうとするのだろう。「翻訳」のお世話になるのは決して悪いことではない理由はそういうところにあるのではないか。