弛緩

志賀直哉「暗夜行路」で主人公の兼作が芸者を見る目の、欲望と自尊心を計りにかけて、それでも相手の付け入る隙を見てそれへと介入していく心理の描写が、的確であるがゆえに、じつにいやらしくて、これぞまさに男だなーと思う。もっとも兼作はじっさい芸者に手を出したりはしない(あるときから娼婦街へ通いはする)のだけど、まあ当然ながら、心では明らかに対象を、そういう目で見る。あきたりない毎日を過ごしてるからこそ、目につく芸者、通りすがりの女、あるいはかつて祖父の妾であった、今では家の家事・世話をやってくれてる女性にまで、そのような視線を向ける。相手は、誰でもいいのだ。この女ならどうだろう…という想像ばかりが、頭を占める。にもかかわらず久々に日記を開けば、ずいぶん高尚らしく大げさな話をいっぱい書きたくなる(そこに「もう少しちゃんとしたい」という願望が潜んでもいる)。男なんてそんなものだ…ということではなく、ここで表現されているのは、長期でつづいている精神的弛緩の様態ということだろう。弛緩の日々をこのように書くこと、つまり読み手の共感に期待しない、文章から書き手の望みや伝えたい欲望の形跡が注意深く取り除かれていて、書いた人の匂いがきちんと文章から消してあるから、(私)小説としての弛緩がここにあらわれている。