柄谷行人「ヒューモアとしての唯物論」を読んで、そのタイトルについてあらためて考えてみるに、それはつまり、唯物論でなければヒューモアじゃない、という言い方も、できるのかもしれない。

少なくとも、我々のこの現実、この世界、人類の未来に、もはや期待は持てない、解決はやってこない。我々はこの場所でじたばたとあがき、この場所で死んでいく。だからヒューモアは、そのことに対する決死の試み…いや、その言い方だと、如何にもシャレになってない、まるで楽しくない。

ヒューモアとは、超越的ではありえないにもかかわらず超越的な視点をもつこと、それはメタ視点的ではあるけど、この私をメタ視点から軽蔑し自嘲する(シャレで乗り越えようとする)いわばイロニーとは、違う性質をもつ。イロニーが人を微妙な気分にさせるのに対して、ヒューモアは人を無意味に無根拠に、笑わせ、元気づけ、活気づける。

ヒューモアとはある限定のなかにしか生きられないはずの私が、あたかもそれがそうではない生き方が可能であるかのように振る舞うことで、その態度、姿勢こそにある可笑しみを生じさせる。

柄谷行人は、つまりフロイトは、ヒューモアを高貴な精神の姿勢であると見る。ヒューモアとは姿勢であってむしろ笑いとは関係がない。

スピノザのような認識は、ヒューモアとしての自己二重化と関連している。スピノザには、ウイットもグロテスクもないがヒューモアはあって、それはおそらくカントもそうだ。

超越論的であることはすなわちヒューモアである。それは病床で苦痛にのたうつ正岡子規が、自らの悲惨をほとんど洒落のめすかのように自らの死骸の在りようを語る筆致にもあらわれているし、フロイトによる死刑囚の挿話---週明けに執行予定の死刑囚が「今週も幸先が良さそうだ」と嘯く---などにもあらわれる。

このとき「笑い」は、どこからもたらされるのか。我々がある種の檻の中にいるのは自明だけど、「笑い」は空を引き裂いて、彼方からやってくるものなのだろうか。いや、そんな「救い」のようなものではなくて、「笑い」はいつもどこにでもある、まったくなんでもない、ありふれたもののはずだ。そうでありながら「ここ」ではない場所からやってくる。