ホン・サンスの「三人のアンヌ」「教授とわたし、そして映画」「ソニはご機嫌ななめ」DVDで続けて観る。
パターンに別れたいくつかの物語は、それぞれ閉じていて、物語Aの登場人物は物語Bの登場人物と接することができない。また、エピソードAを選んだ登場人物はエピソードBを選んだ登場人物とは別の未来へ進むので、エピソードBの世界に触れることはできない。ということが前提のはずだが、意外にそうでもない、異なる位相はところどころで浸潤し合っているのではないか。そんな場面があからさまに描かれるわけではないのだが、かえってどの場面にもその予兆が漂うかのようだ。
エピソードBを選んだ登場人物の表情は、既に確認されたエピソードAでの体験を、ほんとうにまったく知らないままで、その表情になっているのか。俳優としてではなく、フィクションの登場人物として、それとこれとを全く別に成り立たせることができるものだろうか。
彼ら、彼女らはどんな物語の中であろうが、どんなエピソードの只中であろうが、やってることや発言や態度がほぼ同一だ。彼らはほんとうに自由意志で行動しているのだろうか?まるであるシーケンスパターンの束になったカードを適当に出し続けて、それを自分だと称して、お互いにやり取りをしているだけのようではないか。向かい合って食事をして、タバコを吸って、浜辺に散歩に行って、飲みすぎて酩酊して、山道を歩いて、トイレに寄って、ベンチに座っている。